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紋谷のソコヂカラ
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秋祭り[紋谷のソコヂカラ]
投稿日時:2009/10/13(火) 09:33
生まれも育ちも「世田谷区奥沢で…」という友人などと、
プライベートや仕事で いっしょに地方に行くと目を輝かせる。
僕にとっては当たり前に親しんだ、森や林や川や田んぼにであります。
出身が地方でも比較的市街地に生まれて、東京に出てきたという方などは、
逆にそういう感覚はないようで、
俗に言う「田舎は苦手」という方が比較的多い気がする。
両親が居て、代々の墓がある場所だから
帰省はするものの森は森でしかなくて
川は川でしかない…なにか?
という具合だ。
「旦那が九州で 私が秋田でしょ…
大変なのよね…子供も居るし」
いくら帰省したくても簡単ではないことも多い。
一説には 同じ都市圏に住んでいても居を構えるとなると、
無意識に「自分の田舎に近い場所を選ぶ」のだそうだ。
西の出身者は神奈川県に…
東京在住なら 世田谷 目黒 大田区 …などなど
逆に東の出身者は新宿に近かったり
池袋だったりというように…
僕の場合はそういわれるとそうだなあ…と気がつく。
最初が高田馬場 これは学校の関係…
つぎに 祐天寺 学芸大学 自由が丘
と風呂なしアパートを 転々として
埼玉に勤務してから 大山 石神井公園
…などなどでありましたが
またすぐ西に越して以来
20年近く神奈川県に住んでいる。
おかげで…と言うのも可笑しいが、
帰省には車でも電車でも、2時間半で済む。
地方の公共事業問題が、またまた“かまびすしい”
わが静岡の例でいえば 「第二東名」と「静岡空港」
この2大事業であります。
「静岡空港」に関しては、そもそも論から、
建設工事の不手際 など“ミソ”は漬け放題ですが、
メディアが取り上げた話をなぞるのも無駄ですから
私見を詳しく言いませんが…
正直…「建設する意味がわからない派」でした。
ところが 先日 長崎出身のある女性からこう言われた
「静岡空港行きたいわあ…だって富士山見たいもの…」と言われた
北海道の出身の友人も
「 母ちゃんがさあ 富士山見たいっていうからさあ
…空港出来たでしょ…招待しようかと思うんだよね」という。
ついでに言うと 韓国人の知り合いも
「こんど静岡に富士山見にハムニダ(謝)」とメールが来た。
…なるほど 他県の人はそう感じているのか。
富士山ばっかだなあ…と苦笑しつつも、
地元は「行くニーズ」だけを必要論の判断の基準にしてしまうが、
「来てくれる」ということは実は盲点か。
もちろん、試算のシュミレーションでは観光収入も織り込み
ロジステックスに纏わる経済効果も見込まれているのでしょうが、
地域感情としてはやはり「オラはのらねえだら~」から発意してしまう。
それでも運行開始から半年くらい経ちましたか…
沖縄や北海道路線くらいが採算ベースで後は下回っているらしい。
JALに足りない分を2億ばかり払わなければとなっていて、
またまた“かまびすしい”。
今のJALには 焼け石に水にも足りない誤差なのでしょうが。
「第二東名」はどうなるのだろう。
まあ中止と言うことはないのだろうが
…もし凍結とかなる可能性が今後増すのであれば非常ににみっともない。
うちの近所を通過する(正確には実家の2Kmほど裏)ために、
森は切り開かれ 造成工事の最中であります。
また、目の前の田んぼには 巨大なコンクリートの柱がバンバン…バン!
(まさにこういう感じ)で立ち並んでいて、
頭に乗っかる道路の完成を待っている。
ここで止められたらたまらない。
積年の思いが凝縮された、某ダム問題とは比べるのも申し訳ないが、
気持ちの根幹は同じように思う。
もし、この異形の柱が…このまま放置されることになるようなら…
ボクは落書きしてやる! 絶対に!
◆◆ お誘い ◆◆
11月6日~8日 わが故郷 森町ではお祭りがあります。
少しご紹介します…
静岡県西部地区最大のお祭りといえば、浜松の祭りが有名です。
これは 城下町浜松のお殿様が第一子誕生の祝いと始めたのが
そもそもの起こりで、今も「我が家の初子を町内で祝う」というもの。
市内170の町内で 巨大な凧揚げ合戦をしたり、
御殿屋台を引き回したりと…
なかなかに盛況な夏のイベントであります。
地元、森町を出て、浜松市内に居を構えている親戚は、
「ボクはここのお祭りの意味がわからないただ騒ぐだけで
…だからなんなんだと感じる」
と言うが、浜松出身者に言わせると
「このお祭りは地元のわれわれだけのためにある。
子供が産まれたことを内輪で祝う
だから身内同士…そういうもの」
…らしい。
実は、ボクはこの歳まで浜松祭りを見たことがなかった。
去年、今年とはじめて体感した。
結論を言えば、その親戚の意見に同感であります。
これは同じ静岡西地区のものが近いが故に
より感じる独特の感情かもしれません。
あの…ただ騒ぐだけ…な感じに共感できない
…のでしたが、
「身内のお祭り」といえばそうなのでしょう、
そもそもお祭りとはそういうものなのでしょう。
…それにしても感じる違和感は…
規模のでかさかもしれない。
どうにも 何を観てよいのか…わからない
あと、初子のお祝いがベースにあるとはいえ、
祭りのコンセプト…
うーん 一本筋が通っていない感じが
どうも乗れないのであります。
このあたりは好き嫌いの範疇ですから仕方ないのですが…
それにしても、身内の大騒ぎ…というわりには
観光客に向けてのパフォーマンスは大掛かりでありました。
森のお祭りはこれに比べては規模も小さい大凧も上がらない…
それでも ボクは大好きなのです。
そもそもは2つの神社の氏子町だけの祭礼だったらしいのですが
大正までの村の細分化や融合を経て、
14の町内が参加する現在の形になったお祭りです。
そもそもは今年の豊年への御礼と来年の五穀豊穣祈願…
いわゆる秋祭りです。
お祭りの開催中は、町内にはそれぞれ2輪屋台を引き回します。
この屋台がなかなか美しく
屋上の浜床には歌舞伎などを模した三車人形がライトアップされ、
車体は総漆塗り。中には 大太鼓 小太鼓が乗り込み、
笛を鳴らす手木には 肉襦袢姿の若い衆が入り
「おっそら」の掛け声も勇ましく 練る。
屋台の前方の長い綱は 町内の子供たちの担当…
おそろいの法被姿で、屋台と一緒に町内を巡るのであります。
森の町内は道が狭く、入り組んでいて
家々の軒をかすりながら右に左に…練るさまは
見ているだけで心が沸き立ちます。
違う町内の屋台がその狭い道で鉢合わせるようなら
喧嘩がはじまります。
どちらも譲らないつばぜり合い…
それが故で遠州の喧嘩祭りとも言われてきました。
ただ、昔、この喧嘩が行き過ぎて…死人がでたこともあり、
現在では自粛…まあ睨み合い…という感じに落ち着いています。
祭りの見どころは2つの神社前に全部の屋台が並ぶ
「お渡り」と最終日の「舞児還し」
「舞児還し」は、
毎年各町内から選び出された子供が舞楽を奉納し、
最終日にはこの舞児を各々の家に送り返すという行事のことで、
舞楽を終えた舞児を 町内の男集が担ぎ、
社から地面につけることなく屋台の前面に納め帰ってゆくという
慣わしなのです。
ボクは 特にこの舞児返しが 大好きで…
実は サラリーマンの時代にひとり新幹線に飛び乗り
この舞児返しだけ観て帰る…なんてことをしていました。
奉納される神社の社へと続く石段の脇の木立から下を見下ろすと
狭い道に町内の屋台が舞児の帰りを待ちながら、ひしめき合っています。
「おそらおっそら!」と掛け合い、大太鼓小太鼓と笛が醸す
独特の調子が響き渡ります。
日が落ちて行く中に 数百の提灯が乱れ
見物客の熱気も重なり、それは活気がある眺めです。
これを観ていると 元気が出てくるのです。
ということで、今年は帰省してじっくり堪能することに決めています。
森の町に住む従兄弟のひとりは、英悟が堪能で
海外の友人をこのお祭りによく誘っていました。
「小さい町の小さいお祭り
…でもそこが 他にはない独特の日本の伝統を感じる。
そのなんというか凝縮された熱が好き」
という感想を 言ってくれるそうです。
小さいが故に 参加している感じを楽しめるのかもしれません。
東京から新幹線で2時間半…
掛川駅から 天竜浜名湖線という在来線で30分
…そこが森町です。
元気のあるなしに関わらず
秋深い田舎のお祭りの気分を味わいたい方は
ふらっと…寄ってください。
知らない町のお祭り というのもよいものです。
プライベートや仕事で いっしょに地方に行くと目を輝かせる。
僕にとっては当たり前に親しんだ、森や林や川や田んぼにであります。
出身が地方でも比較的市街地に生まれて、東京に出てきたという方などは、
逆にそういう感覚はないようで、
俗に言う「田舎は苦手」という方が比較的多い気がする。
両親が居て、代々の墓がある場所だから
帰省はするものの森は森でしかなくて
川は川でしかない…なにか?
という具合だ。
「旦那が九州で 私が秋田でしょ…
大変なのよね…子供も居るし」
いくら帰省したくても簡単ではないことも多い。
一説には 同じ都市圏に住んでいても居を構えるとなると、
無意識に「自分の田舎に近い場所を選ぶ」のだそうだ。
西の出身者は神奈川県に…
東京在住なら 世田谷 目黒 大田区 …などなど
逆に東の出身者は新宿に近かったり
池袋だったりというように…
僕の場合はそういわれるとそうだなあ…と気がつく。
最初が高田馬場 これは学校の関係…
つぎに 祐天寺 学芸大学 自由が丘
と風呂なしアパートを 転々として
埼玉に勤務してから 大山 石神井公園
…などなどでありましたが
またすぐ西に越して以来
20年近く神奈川県に住んでいる。
おかげで…と言うのも可笑しいが、
帰省には車でも電車でも、2時間半で済む。
地方の公共事業問題が、またまた“かまびすしい”
わが静岡の例でいえば 「第二東名」と「静岡空港」
この2大事業であります。
「静岡空港」に関しては、そもそも論から、
建設工事の不手際 など“ミソ”は漬け放題ですが、
メディアが取り上げた話をなぞるのも無駄ですから
私見を詳しく言いませんが…
正直…「建設する意味がわからない派」でした。
ところが 先日 長崎出身のある女性からこう言われた
「静岡空港行きたいわあ…だって富士山見たいもの…」と言われた
北海道の出身の友人も
「 母ちゃんがさあ 富士山見たいっていうからさあ
…空港出来たでしょ…招待しようかと思うんだよね」という。
ついでに言うと 韓国人の知り合いも
「こんど静岡に富士山見にハムニダ(謝)」とメールが来た。
…なるほど 他県の人はそう感じているのか。
富士山ばっかだなあ…と苦笑しつつも、
地元は「行くニーズ」だけを必要論の判断の基準にしてしまうが、
「来てくれる」ということは実は盲点か。
もちろん、試算のシュミレーションでは観光収入も織り込み
ロジステックスに纏わる経済効果も見込まれているのでしょうが、
地域感情としてはやはり「オラはのらねえだら~」から発意してしまう。
それでも運行開始から半年くらい経ちましたか…
沖縄や北海道路線くらいが採算ベースで後は下回っているらしい。
JALに足りない分を2億ばかり払わなければとなっていて、
またまた“かまびすしい”。
今のJALには 焼け石に水にも足りない誤差なのでしょうが。
「第二東名」はどうなるのだろう。
まあ中止と言うことはないのだろうが
…もし凍結とかなる可能性が今後増すのであれば非常ににみっともない。
うちの近所を通過する(正確には実家の2Kmほど裏)ために、
森は切り開かれ 造成工事の最中であります。
また、目の前の田んぼには 巨大なコンクリートの柱がバンバン…バン!
(まさにこういう感じ)で立ち並んでいて、
頭に乗っかる道路の完成を待っている。
ここで止められたらたまらない。
積年の思いが凝縮された、某ダム問題とは比べるのも申し訳ないが、
気持ちの根幹は同じように思う。
もし、この異形の柱が…このまま放置されることになるようなら…
ボクは落書きしてやる! 絶対に!
◆◆ お誘い ◆◆
11月6日~8日 わが故郷 森町ではお祭りがあります。
少しご紹介します…
静岡県西部地区最大のお祭りといえば、浜松の祭りが有名です。
これは 城下町浜松のお殿様が第一子誕生の祝いと始めたのが
そもそもの起こりで、今も「我が家の初子を町内で祝う」というもの。
市内170の町内で 巨大な凧揚げ合戦をしたり、
御殿屋台を引き回したりと…
なかなかに盛況な夏のイベントであります。
地元、森町を出て、浜松市内に居を構えている親戚は、
「ボクはここのお祭りの意味がわからないただ騒ぐだけで
…だからなんなんだと感じる」
と言うが、浜松出身者に言わせると
「このお祭りは地元のわれわれだけのためにある。
子供が産まれたことを内輪で祝う
だから身内同士…そういうもの」
…らしい。
実は、ボクはこの歳まで浜松祭りを見たことがなかった。
去年、今年とはじめて体感した。
結論を言えば、その親戚の意見に同感であります。
これは同じ静岡西地区のものが近いが故に
より感じる独特の感情かもしれません。
あの…ただ騒ぐだけ…な感じに共感できない
…のでしたが、
「身内のお祭り」といえばそうなのでしょう、
そもそもお祭りとはそういうものなのでしょう。
…それにしても感じる違和感は…
規模のでかさかもしれない。
どうにも 何を観てよいのか…わからない
あと、初子のお祝いがベースにあるとはいえ、
祭りのコンセプト…
うーん 一本筋が通っていない感じが
どうも乗れないのであります。
このあたりは好き嫌いの範疇ですから仕方ないのですが…
それにしても、身内の大騒ぎ…というわりには
観光客に向けてのパフォーマンスは大掛かりでありました。
森のお祭りはこれに比べては規模も小さい大凧も上がらない…
それでも ボクは大好きなのです。
そもそもは2つの神社の氏子町だけの祭礼だったらしいのですが
大正までの村の細分化や融合を経て、
14の町内が参加する現在の形になったお祭りです。
そもそもは今年の豊年への御礼と来年の五穀豊穣祈願…
いわゆる秋祭りです。
お祭りの開催中は、町内にはそれぞれ2輪屋台を引き回します。
この屋台がなかなか美しく
屋上の浜床には歌舞伎などを模した三車人形がライトアップされ、
車体は総漆塗り。中には 大太鼓 小太鼓が乗り込み、
笛を鳴らす手木には 肉襦袢姿の若い衆が入り
「おっそら」の掛け声も勇ましく 練る。
屋台の前方の長い綱は 町内の子供たちの担当…
おそろいの法被姿で、屋台と一緒に町内を巡るのであります。
森の町内は道が狭く、入り組んでいて
家々の軒をかすりながら右に左に…練るさまは
見ているだけで心が沸き立ちます。
違う町内の屋台がその狭い道で鉢合わせるようなら
喧嘩がはじまります。
どちらも譲らないつばぜり合い…
それが故で遠州の喧嘩祭りとも言われてきました。
ただ、昔、この喧嘩が行き過ぎて…死人がでたこともあり、
現在では自粛…まあ睨み合い…という感じに落ち着いています。
祭りの見どころは2つの神社前に全部の屋台が並ぶ
「お渡り」と最終日の「舞児還し」
「舞児還し」は、
毎年各町内から選び出された子供が舞楽を奉納し、
最終日にはこの舞児を各々の家に送り返すという行事のことで、
舞楽を終えた舞児を 町内の男集が担ぎ、
社から地面につけることなく屋台の前面に納め帰ってゆくという
慣わしなのです。
ボクは 特にこの舞児返しが 大好きで…
実は サラリーマンの時代にひとり新幹線に飛び乗り
この舞児返しだけ観て帰る…なんてことをしていました。
奉納される神社の社へと続く石段の脇の木立から下を見下ろすと
狭い道に町内の屋台が舞児の帰りを待ちながら、ひしめき合っています。
「おそらおっそら!」と掛け合い、大太鼓小太鼓と笛が醸す
独特の調子が響き渡ります。
日が落ちて行く中に 数百の提灯が乱れ
見物客の熱気も重なり、それは活気がある眺めです。
これを観ていると 元気が出てくるのです。
ということで、今年は帰省してじっくり堪能することに決めています。
森の町に住む従兄弟のひとりは、英悟が堪能で
海外の友人をこのお祭りによく誘っていました。
「小さい町の小さいお祭り
…でもそこが 他にはない独特の日本の伝統を感じる。
そのなんというか凝縮された熱が好き」
という感想を 言ってくれるそうです。
小さいが故に 参加している感じを楽しめるのかもしれません。
東京から新幹線で2時間半…
掛川駅から 天竜浜名湖線という在来線で30分
…そこが森町です。
元気のあるなしに関わらず
秋深い田舎のお祭りの気分を味わいたい方は
ふらっと…寄ってください。
知らない町のお祭り というのもよいものです。
大阪モンや[紋谷のソコヂカラ]
投稿日時:2009/09/14(月) 15:21
岩田さんの仕事の手伝いで、大阪に行ってきた。
めっきり涼しくなった関東とは違い、まだまだ暑い。
大阪は、サラリーマン時代に、
仕事で、何度も訪れているのですが、
大概は、支社で打ち合わせして
お客さんのところに行き…
あとは梅田とかで飲んで…ほなさいなら!
って強行軍ばかりで、
まともに観光なんてしたことがなかった。
そんな僕を楽しませようと、
「もんやさんに見せたい場所がある…」
と、関空から、バスに乗って岩田さんに連れてこられた。
そこは、大阪天王寺近くの飛田新地…。
現在でも戦前の遊郭がそのままに残っている場所です。
真昼間に男3人 ふらふらと散歩。
こんな時間に歩いて
感じるものがあるのだろうか…と思ったが、
なかなかどうして趣がある。
それぞれの店は、それぞれの屋号の看板がある
小さな木造二階建て。
一階部分は顔見せの場所になっていて、
面白いのは通りに対して
間口が垂直に面しているところ。
わざわざ覗き込まなくても、
よく見えるようにという造りなのでしょう。
昼と言うのに、1間ほどの玄関の中には、
怪しい照明があたっていて、
その真ん中にお姉さんが座布団に座っていて、
脇には、客引き役のオバちゃんが椅子に腰掛けています。
そういう店が…数十件も。
風営法の強化で、この手の商売は、
かなり縮小されたと聞かされていたのですが、
ここは、治外法権なのでしょうか?
大正初期に開かれたという飛田遊郭は、
街全体が文化財の風格。
もちろん売春防止法があるために、
おおっぴらな売春活動は出来ないので、
「小料理屋」という名目で営業しているそうなのですが、
それでも、どの店も堂々と営業されています。
不思議だ。
興味で料金システムを聞くと、
かなりの高額…
いまどきこの料金で成り立つものなのか?
これも、不思議だ。
ほんとうは、そのあたりを、
客引きのおばちゃんに聞きたかったのですが、
ひやかしはエライ目に合うということらしいので、
遠慮しました。
利用させていただく機会はないと思いますが、
この不思議…いつか、調べてみたいと思います。
散歩は、山谷や寿町が裸足で逃げ出すといわれる
日本最大最強の労働者地区「西成 あいりん」へと向かう。
「ここから 空気がかわりますから」
と岩田さんに言われたのだが、ほんとうに変った。
体感温度が低くなったようだ。
ほんとうは、三角公園まで探検したかったのだが…
いちおうスーツ姿の自分が
風景から浮きまくっているのがわかり、
遠慮せざる負えない。
無気力の威圧とでもいうのか、
目を合わせたわけでもないのに、
そこの住人やたむろする労働者から、
拒絶を感じる。
職業安定所の前も、
「ボクはただ歩いているだけですよお~」
と今は、素通りするしかない。残念だ。
マカオも九龍も NYのABCアベニューも
ロンドンやリオの裏街も
…爆弾と地雷の恐怖さえなければ
どこでも大丈夫と自負している
自分だが、ここはそうもいかない。
同じ日本人のせいだと感じる。
しかし くやしいので ここも身なりを整えて(笑)
カメラを片手に
いつかかならずリベンジと決めた。
ここ、「あいりん総合センター」のシャッターが
上がるのは午前5時で、
それ以前に下請けや孫請け企業の手配師がやってくるらしい、
1日の求人は2000人位で、
これに対して求職の労働者は約10倍。
手配師が真っ先に声をかけるのは、
40代の若手層ばかりで、ご年配の労働者は
「おこぼれ」を待つということになるらしい。
センターというか、大きな倉庫のような建物の前には、
労務者が等間隔で 座っていた。
我々の少し前を 女性が歩いている。
どうみても 体にぴっちぴちの寝巻き姿である、
茶髪に買い物のビニール袋を片手に
…そのうちに携帯を手に取る。
「今日は 仕事行くって いうたなあ~
なんで パチンコ屋におんねん?!」
おおっ~きたあ!!
「はあ~知らんわ!うちは忙しいねん。!あほ!死ね!」
追い越すに追い越せず…男3人
彼女の歩調に併せて 後ろを歩く。
「ボケ!カスゥ! だから 知らんわ! 電話してくんな!」
「もう 聞き飽きたわ! …うるさい! ボケ! カス!」
新今宮駅前の横断歩道を渡り
彼女とはさよなら。
「もんやさん どこでもあんなんじゃ
ないですわ ここだから 特別」
と岩田さんがこっそりと耳打ちする。
でも、ボクは、一度でいいから、
あんな風に叱られたい…と
なぜか思ってしまった。
気持ちよいだろうなあ…と。
「じゃんじゃん横丁」は串揚げブームが続いている。
ここは2回目ですが、日曜日の賑わいは
相当で、有名な串揚げやさんの前には長蛇の列。
そこまで味が違うのか?と思うが、
食べないで論じるのは反則なので、
ここもいつか来れたらいいなあと思った。
しかし、このあたりの店の作りは
派手さが色っぽいなあと つくづく思う。
看板文字のフレーズはもちろん
書体や色使い すべてに調和が取れていて、
その下世話なきわどさに
センスを感じてしまう、
歌舞伎町あたりのネオンの洪水とは
同じ「煽り」でもだいぶんと違う。
目にうるさくなく、気持ちよくはいってくる。
東京のそれは
どこまでも無機質でつめたい派手さ
…この違いは大きいなあと思う。
岩田さんのもと部下であった
日置君の家に泊めていただいた。
男2人 銭湯に…いやあ気持ちのよく
ひなびたお湯処で なんとも最高でした。
大阪も梅田あたりから離れると
非常に静かで、落ち着く場所があることを知りました。
最後の夜は 十三なる場所に言ったのですが
ここも面白かった。
あまり東京と比べるのもなんですが、
大阪のよさは 嘘っぽくないところ ですね。
そりゃ みんないろいろ事情がありましょうが、
あまりカッコウつけず 本質的に生きています…
というスタイルが 気持ちよいです。
岩田さん 日置君 ありがとうでした。
めっきり涼しくなった関東とは違い、まだまだ暑い。
大阪は、サラリーマン時代に、
仕事で、何度も訪れているのですが、
大概は、支社で打ち合わせして
お客さんのところに行き…
あとは梅田とかで飲んで…ほなさいなら!
って強行軍ばかりで、
まともに観光なんてしたことがなかった。
そんな僕を楽しませようと、
「もんやさんに見せたい場所がある…」
と、関空から、バスに乗って岩田さんに連れてこられた。
そこは、大阪天王寺近くの飛田新地…。
現在でも戦前の遊郭がそのままに残っている場所です。
真昼間に男3人 ふらふらと散歩。
こんな時間に歩いて
感じるものがあるのだろうか…と思ったが、
なかなかどうして趣がある。
それぞれの店は、それぞれの屋号の看板がある
小さな木造二階建て。
一階部分は顔見せの場所になっていて、
面白いのは通りに対して
間口が垂直に面しているところ。
わざわざ覗き込まなくても、
よく見えるようにという造りなのでしょう。
昼と言うのに、1間ほどの玄関の中には、
怪しい照明があたっていて、
その真ん中にお姉さんが座布団に座っていて、
脇には、客引き役のオバちゃんが椅子に腰掛けています。
そういう店が…数十件も。
風営法の強化で、この手の商売は、
かなり縮小されたと聞かされていたのですが、
ここは、治外法権なのでしょうか?
大正初期に開かれたという飛田遊郭は、
街全体が文化財の風格。
もちろん売春防止法があるために、
おおっぴらな売春活動は出来ないので、
「小料理屋」という名目で営業しているそうなのですが、
それでも、どの店も堂々と営業されています。
不思議だ。
興味で料金システムを聞くと、
かなりの高額…
いまどきこの料金で成り立つものなのか?
これも、不思議だ。
ほんとうは、そのあたりを、
客引きのおばちゃんに聞きたかったのですが、
ひやかしはエライ目に合うということらしいので、
遠慮しました。
利用させていただく機会はないと思いますが、
この不思議…いつか、調べてみたいと思います。
散歩は、山谷や寿町が裸足で逃げ出すといわれる
日本最大最強の労働者地区「西成 あいりん」へと向かう。
「ここから 空気がかわりますから」
と岩田さんに言われたのだが、ほんとうに変った。
体感温度が低くなったようだ。
ほんとうは、三角公園まで探検したかったのだが…
いちおうスーツ姿の自分が
風景から浮きまくっているのがわかり、
遠慮せざる負えない。
無気力の威圧とでもいうのか、
目を合わせたわけでもないのに、
そこの住人やたむろする労働者から、
拒絶を感じる。
職業安定所の前も、
「ボクはただ歩いているだけですよお~」
と今は、素通りするしかない。残念だ。
マカオも九龍も NYのABCアベニューも
ロンドンやリオの裏街も
…爆弾と地雷の恐怖さえなければ
どこでも大丈夫と自負している
自分だが、ここはそうもいかない。
同じ日本人のせいだと感じる。
しかし くやしいので ここも身なりを整えて(笑)
カメラを片手に
いつかかならずリベンジと決めた。
ここ、「あいりん総合センター」のシャッターが
上がるのは午前5時で、
それ以前に下請けや孫請け企業の手配師がやってくるらしい、
1日の求人は2000人位で、
これに対して求職の労働者は約10倍。
手配師が真っ先に声をかけるのは、
40代の若手層ばかりで、ご年配の労働者は
「おこぼれ」を待つということになるらしい。
センターというか、大きな倉庫のような建物の前には、
労務者が等間隔で 座っていた。
我々の少し前を 女性が歩いている。
どうみても 体にぴっちぴちの寝巻き姿である、
茶髪に買い物のビニール袋を片手に
…そのうちに携帯を手に取る。
「今日は 仕事行くって いうたなあ~
なんで パチンコ屋におんねん?!」
おおっ~きたあ!!
「はあ~知らんわ!うちは忙しいねん。!あほ!死ね!」
追い越すに追い越せず…男3人
彼女の歩調に併せて 後ろを歩く。
「ボケ!カスゥ! だから 知らんわ! 電話してくんな!」
「もう 聞き飽きたわ! …うるさい! ボケ! カス!」
新今宮駅前の横断歩道を渡り
彼女とはさよなら。
「もんやさん どこでもあんなんじゃ
ないですわ ここだから 特別」
と岩田さんがこっそりと耳打ちする。
でも、ボクは、一度でいいから、
あんな風に叱られたい…と
なぜか思ってしまった。
気持ちよいだろうなあ…と。
「じゃんじゃん横丁」は串揚げブームが続いている。
ここは2回目ですが、日曜日の賑わいは
相当で、有名な串揚げやさんの前には長蛇の列。
そこまで味が違うのか?と思うが、
食べないで論じるのは反則なので、
ここもいつか来れたらいいなあと思った。
しかし、このあたりの店の作りは
派手さが色っぽいなあと つくづく思う。
看板文字のフレーズはもちろん
書体や色使い すべてに調和が取れていて、
その下世話なきわどさに
センスを感じてしまう、
歌舞伎町あたりのネオンの洪水とは
同じ「煽り」でもだいぶんと違う。
目にうるさくなく、気持ちよくはいってくる。
東京のそれは
どこまでも無機質でつめたい派手さ
…この違いは大きいなあと思う。
岩田さんのもと部下であった
日置君の家に泊めていただいた。
男2人 銭湯に…いやあ気持ちのよく
ひなびたお湯処で なんとも最高でした。
大阪も梅田あたりから離れると
非常に静かで、落ち着く場所があることを知りました。
最後の夜は 十三なる場所に言ったのですが
ここも面白かった。
あまり東京と比べるのもなんですが、
大阪のよさは 嘘っぽくないところ ですね。
そりゃ みんないろいろ事情がありましょうが、
あまりカッコウつけず 本質的に生きています…
というスタイルが 気持ちよいです。
岩田さん 日置君 ありがとうでした。
銀座の定食と戸塚の再開発[紋谷のソコヂカラ]
投稿日時:2009/03/05(木) 23:28
銀座8丁目にある居酒屋さん、お昼は定食を出し営業している。
以前、職場が近かったせいで、よく利用させて頂いていたが、
ここのところ、とんと…もう7,8年くらいはご無沙汰をしていた。
当時は、よく混んでいたなあ…という印象でした。
久しぶりに東京に出た折、思いついて立ち寄ることにした。
1時を少し回ったくらいでした…いっぱいか…
と入り口の引き戸を開けると
中は、がらがら
…あれ? お休みか?と 戸惑ってしまった。
すると、奥から、「いらっしゃい」の声…
席に着く前に、注文を先にする段取りのお店なので、
出てきた女将さんに、
「しょうが焼きの定食に納豆を…」と伝え、席に着いた。
「まだ、1時なのに…お休みかと思いましたよ」というと、
「最近は、暇でねえ…」と苦笑交じり…
なんとなく暇を持て余していたお話し好きの女将さんは、
僕が、数年前までよく顔を出していたことを知ると…
「よく来てくれていた客さんの会社が
銀座から引越しをしてしまってね…
もうお昼はいつもこんなものですよ」
なんとなくの会話が彼女の火をつけてしまったようで、
それから1時間…テーブルの僕の前に座り、
女将さんのこのお店の成り立ちについて、
家族のことまで、拝聴することになってしまった。
元は麻布で魚の卸業を営んでいたことに歴史は始まる。
おじいさんが銀座の店舗をいじり、
現在の形になったのがもう数十年前。
近隣の同業者が、次々と店を畳んで行くなか、
父母息子…今はお嫁さんも含め、
助け合い商売を続けておられるそうだ。
商売の秘訣はなんですか?と問うまでもなく、
「ウチはね。材料は国産しか使わない。
だって味が違うもの。高いけどね。
そこのところは変えられないわ」
「先代が比較的派手な方だったんだけど、
夫はまじめなひと。そこがこの商売にはよかったの」
「息子にはよく言うの…どんなに成功しても仕事は一生懸命やりなさい…
日々のがんばりが物事のはじまり」
…話しを引き出してしまったのは僕のせいですが、
おかげで、しょうが焼き食べたんだかなんなんだか…
味も分からず、お茶を代わりしても、もう一杯お代わりしても…
出るに出られず、なんだか長居をすることになってしまいました。
壁に掛けられた往年の歌舞伎俳優のサインの色紙に
纏わるエピソードもそうですが、
昭和の初めから続く、この店の歴史は、
なかなか興味深いものでした。
よい話し、ありがとうございました。
拝啓…もと8もしくは7関係の皆さん、
たまに思い出したら 寄ってあげてくださいな。
僕は、神奈川県戸塚に住んで…17年になります。
故郷の静岡に感じが似ているせいか、どうも居心地がよい。
なんといっても、緑が多い、しかも原生の姿で残っている。
しかし、住み始めた頃から較べると、
都心に近いこのあたりの土地は、少しの空き地も残してはくれず、
マンションや戸建てがニョキニョキと建ち、
おそらく人口は倍近くになっていると思う。
僕の住むあたりは、昔、吉田茂が葉山の自宅から、
国会の在る霞ヶ関まで、ハイヤーだか自家用車だかを飛ばす際に、
東海道の“開かずの踏み切り”に怒り、
新しく国道にバイパスを通してしまった…
その…横浜新道の近くです。
このあたりは、住宅街なのに…日用品の買い物をする場所が…
オンボロなダイエーしかありません。
ボロな割には、週末は大繁盛。
大繁盛なのだから、キレイにすればよいのに、
ずっとボロなまま。
どれくらいボロかというと…
営業妨害になるので控えますが(笑)
そう笑っちゃうくらい…ボロです。
近所には、まともにご飯食べるところもありません。
正確に言うと…出来てはつぶれ、出来てはつぶれ…
多いところは、ここ5年で5件、
飲食のテナントが替わったビルがあるほど。
飲食店だけでなく、和菓子屋、インテリアショップ、ガソリンスタンド、
100円ショップ、なんとコンビにまでもが…
どんどん潰れてゆく。
昔から…ここ17年ずっとです。
正確には、ダイエーの近所に関わらず、
戸塚という町そものもがこういう性質の場所だからなのだと思います。
自宅と駅
自宅とダイエーの往復…
それなりのものは横浜や藤沢に買い物にゆけばよい。
日用品はダイエーで。
この傾向が進み、近所で何かをするということがなくなるドーナツ化。
そんな戸塚が変わろうとしています。
「戸塚西口再開発」
大げさではなく、40年前からの悲願がやっと着工。
江戸時代からの宿場町戸塚は1887年の東海道線開通で一挙に人口が増え、
現在の乗降客数は一日あたり27万人。
この人口の増加に、都市整備が追いつかない典型のモデル。
件の、開かずの踏み切りのせいで、駅の東と西は、
人の行き来が分断、とくに西口は昔ながらの商店街が密集して、
道路は狭く、駐車場は未整備、防災上も不安…という地域。
ここにメスが入りました。
悲願と言うのも大げさではなく、それほどいびつな構造の町です。
整備計画の前提となる「住民の声」を覗いてみると…
もう文句や要望の嵐。
2012年~14年頃には 完成との話しですが、
滞らずに進めて欲しいものです。
戸塚といえば、ブリジストンと日立さん。
両社の従業員がお昼を食べにやってくる…
そんなお客さんが9割の中華料理屋は頑張っている。
店主の威勢が乗り移る店は、繁盛している。
そういう活気があるお店。
味は…まあ普通ですが(笑)
この環境下で頑張っていることは応援したい。
限られた常連客に極度に依存しているということは、
危険もあるということ。
工場ひとつが移転するだけで、
小さなお店はすっとんでしまう。
移転する側の事情はさまざまなれど、
社食の不味さを補ってくれる店に、感謝などない。
この中華屋さんが、野菜炒めのキャベツを国産に
こだわっているとは思えませんが、
それでも、奥さんとパートのおばちゃんと
汗水垂らして働く姿は、
銀座の居酒屋の女将さんが言っていた、
「目の前の仕事をまじめに継続」
この当たり前の言葉を思い出させてくれる。
それにしても、これほど、外食が地盤沈下している場所…
ということは、戸塚在住の家族、我が家の奥さんの手料理は
その分、どんどん上達しているのでしょう。
うらやましいものです。はい。
以前、職場が近かったせいで、よく利用させて頂いていたが、
ここのところ、とんと…もう7,8年くらいはご無沙汰をしていた。
当時は、よく混んでいたなあ…という印象でした。
久しぶりに東京に出た折、思いついて立ち寄ることにした。
1時を少し回ったくらいでした…いっぱいか…
と入り口の引き戸を開けると
中は、がらがら
…あれ? お休みか?と 戸惑ってしまった。
すると、奥から、「いらっしゃい」の声…
席に着く前に、注文を先にする段取りのお店なので、
出てきた女将さんに、
「しょうが焼きの定食に納豆を…」と伝え、席に着いた。
「まだ、1時なのに…お休みかと思いましたよ」というと、
「最近は、暇でねえ…」と苦笑交じり…
なんとなく暇を持て余していたお話し好きの女将さんは、
僕が、数年前までよく顔を出していたことを知ると…
「よく来てくれていた客さんの会社が
銀座から引越しをしてしまってね…
もうお昼はいつもこんなものですよ」
なんとなくの会話が彼女の火をつけてしまったようで、
それから1時間…テーブルの僕の前に座り、
女将さんのこのお店の成り立ちについて、
家族のことまで、拝聴することになってしまった。
元は麻布で魚の卸業を営んでいたことに歴史は始まる。
おじいさんが銀座の店舗をいじり、
現在の形になったのがもう数十年前。
近隣の同業者が、次々と店を畳んで行くなか、
父母息子…今はお嫁さんも含め、
助け合い商売を続けておられるそうだ。
商売の秘訣はなんですか?と問うまでもなく、
「ウチはね。材料は国産しか使わない。
だって味が違うもの。高いけどね。
そこのところは変えられないわ」
「先代が比較的派手な方だったんだけど、
夫はまじめなひと。そこがこの商売にはよかったの」
「息子にはよく言うの…どんなに成功しても仕事は一生懸命やりなさい…
日々のがんばりが物事のはじまり」
…話しを引き出してしまったのは僕のせいですが、
おかげで、しょうが焼き食べたんだかなんなんだか…
味も分からず、お茶を代わりしても、もう一杯お代わりしても…
出るに出られず、なんだか長居をすることになってしまいました。
壁に掛けられた往年の歌舞伎俳優のサインの色紙に
纏わるエピソードもそうですが、
昭和の初めから続く、この店の歴史は、
なかなか興味深いものでした。
よい話し、ありがとうございました。
拝啓…もと8もしくは7関係の皆さん、
たまに思い出したら 寄ってあげてくださいな。
僕は、神奈川県戸塚に住んで…17年になります。
故郷の静岡に感じが似ているせいか、どうも居心地がよい。
なんといっても、緑が多い、しかも原生の姿で残っている。
しかし、住み始めた頃から較べると、
都心に近いこのあたりの土地は、少しの空き地も残してはくれず、
マンションや戸建てがニョキニョキと建ち、
おそらく人口は倍近くになっていると思う。
僕の住むあたりは、昔、吉田茂が葉山の自宅から、
国会の在る霞ヶ関まで、ハイヤーだか自家用車だかを飛ばす際に、
東海道の“開かずの踏み切り”に怒り、
新しく国道にバイパスを通してしまった…
その…横浜新道の近くです。
このあたりは、住宅街なのに…日用品の買い物をする場所が…
オンボロなダイエーしかありません。
ボロな割には、週末は大繁盛。
大繁盛なのだから、キレイにすればよいのに、
ずっとボロなまま。
どれくらいボロかというと…
営業妨害になるので控えますが(笑)
そう笑っちゃうくらい…ボロです。
近所には、まともにご飯食べるところもありません。
正確に言うと…出来てはつぶれ、出来てはつぶれ…
多いところは、ここ5年で5件、
飲食のテナントが替わったビルがあるほど。
飲食店だけでなく、和菓子屋、インテリアショップ、ガソリンスタンド、
100円ショップ、なんとコンビにまでもが…
どんどん潰れてゆく。
昔から…ここ17年ずっとです。
正確には、ダイエーの近所に関わらず、
戸塚という町そものもがこういう性質の場所だからなのだと思います。
自宅と駅
自宅とダイエーの往復…
それなりのものは横浜や藤沢に買い物にゆけばよい。
日用品はダイエーで。
この傾向が進み、近所で何かをするということがなくなるドーナツ化。
そんな戸塚が変わろうとしています。
「戸塚西口再開発」
大げさではなく、40年前からの悲願がやっと着工。
江戸時代からの宿場町戸塚は1887年の東海道線開通で一挙に人口が増え、
現在の乗降客数は一日あたり27万人。
この人口の増加に、都市整備が追いつかない典型のモデル。
件の、開かずの踏み切りのせいで、駅の東と西は、
人の行き来が分断、とくに西口は昔ながらの商店街が密集して、
道路は狭く、駐車場は未整備、防災上も不安…という地域。
ここにメスが入りました。
悲願と言うのも大げさではなく、それほどいびつな構造の町です。
整備計画の前提となる「住民の声」を覗いてみると…
もう文句や要望の嵐。
2012年~14年頃には 完成との話しですが、
滞らずに進めて欲しいものです。
戸塚といえば、ブリジストンと日立さん。
両社の従業員がお昼を食べにやってくる…
そんなお客さんが9割の中華料理屋は頑張っている。
店主の威勢が乗り移る店は、繁盛している。
そういう活気があるお店。
味は…まあ普通ですが(笑)
この環境下で頑張っていることは応援したい。
限られた常連客に極度に依存しているということは、
危険もあるということ。
工場ひとつが移転するだけで、
小さなお店はすっとんでしまう。
移転する側の事情はさまざまなれど、
社食の不味さを補ってくれる店に、感謝などない。
この中華屋さんが、野菜炒めのキャベツを国産に
こだわっているとは思えませんが、
それでも、奥さんとパートのおばちゃんと
汗水垂らして働く姿は、
銀座の居酒屋の女将さんが言っていた、
「目の前の仕事をまじめに継続」
この当たり前の言葉を思い出させてくれる。
それにしても、これほど、外食が地盤沈下している場所…
ということは、戸塚在住の家族、我が家の奥さんの手料理は
その分、どんどん上達しているのでしょう。
うらやましいものです。はい。
バリ島な話し[紋谷のソコヂカラ]
投稿日時:2008/11/10(月) 23:03
~ サヤスナン・パルティマカリィー・
オラン・スーバイ・アンダー ~
寒くなると…バリ島に行きたくなる。
寒くなくても行きたいのだから、
寒くなればなおさら。
いろいろな国を旅してきて、思うことですが、
「また、訪れたいな」とは思う場所はあっても、
「いつか、ここに住みたい」とまで感じる場所は、
なかなかありません。
バリ島は、僕にとってはその唯一の場所です。
だから、バリ島に行くときは
「帰る」という気分になります。
それは、日本で僕が生まれた故郷と同じ感覚かと問われれば、
それは明らかに違う感じで、
原点回帰…ルーツに戻るというのではなく、
ただ、最後はこういうところで人生を終えたら幸せだろうなあ…
という漠然とした感覚が深くあります。
こういう思いを抱くということは、そうそうないことで、
その意味では、この島を知ってよかったとつくづく思うわけです。
バリ島を僕と同じように感じて、
永住している日本人は、数多くいます。
また、動機は違っていても、
実際に住んでしまった日本人も多い場所です。
何日か滞在すると、そんな日本人に何人も出くわします。
また、そこまでいかなくても、
いまでは、ハワイと双璧の
「日本人がリピートする海外のリゾート地」ですから、
回りを見渡せば、一度は訪れたことがある方が必ず何人かはいます。
そして、その中には、…「期待と違った」…
「一度でいいや」 という方も大勢います。
こういう方の多くのパターンは4つ。
ひとつめ
「モルディブやグレートバリアリーフのような
海に出会えると勘違いしている方」
ふたつめ
「東南アジアの猥雑さに心惹かれ、
バンコクの裏町をこよなく愛する方」
みっつめ
「アユタヤやアンコールワットのような、
ヒンドゥや仏教の寺院遺跡に惹かれている方」
よっつめ
「DFS…命の方」
まずひとつめ、
南部…特に観光のメインエリアのクタ・レギャンあたりから、
バドゥン半島のの反対側のヌサドゥアや
付け根のサヌールあたりの海は、
決してエメラルドグリーンではありません。
もっといえば、バリ島の反対側…
車で100Km南のロヴィナビーチにしても、
モルディブのような、限りなく
透明の珊瑚の浅瀬などを目にすることはできません。
そうですねえ~
遠州灘の遠浅の海といった風情…
こういうと夢も希望もありませんが、
少なくとも、ハワイのワイキキの浜辺くらいを想像していたら
…そのギャップに相当戸惑います。
もちろんダイビングはいたるところでできますし、
サーファーの島でもありますから、
マリンスポーツは盛んですが、クタの浜辺に、
白い砂浜とパームツリーと海の青を求めてはいけません。
もちろん、海に漕ぎ出して、陸地から離れ、
近隣のレンボガン島やロンボク島まで足を伸ばせれば、
その様子は変わります。
どうしても味わいたい方は、そのつもりで、1日は、
スケジュールに組み入れる必要があると認識してください。
ふはつめ、
よこしまな思いで訪れるおっさんには、物足りない場所です。
サヌールにはいわゆる「娼婦の館」なるものが存在しますが、
ベトナムやタイ、韓国やフィリピンの作り上げた
欲望地帯はここでは無縁。
ちなみに、インドネシア人の男性は“女の子”大好きです。
そこだけに限れば、「東洋のイタリア人」といっても
差し支えないくらいに。
そして、そのターゲットは「ニホンノオンナノコ」なのです。
レギャンあたりの安宿に泊まると、
深夜、ホテルのフロントあたりで、
バリの男性と日本の娘とのバトルを目にします。
「ドウシテ…ヘヤニイッテハ、ダメ?
…ワタシイチニチ、キョウコ二、ツキアッタ」
「ええっ!?そんなあ…感謝しているわ…ありがとう…
でも、それとこれとは…」
「ナゼ?ワタシ…キョウコノコト…スキ」
「そ…そんなあ…今日あったばかりで…そんなぁ…困るわぁ~」
「スキナモノハスキ…ダカラ、イチニチ、キョウコトイタ」
「………」
「キョウコハ、ワヤン…スキジャナイカ?」
「…いやあ…いい人だとわ思うけど…」
「イイヒト…キライカ?」
「…えっ……そういうわけじゃあ…」
「…」
深夜、正々堂々、真っ向から挑む、
バリの青年の潔さと粘りにはいつも感服します。
で、翌朝、クタレギャン通りを、
手をつないで歩いていたりしますから…
もう…おみそれします。
そう考えると、日本人のおっさんには物足りなくても、
日本人の娘さんにはパラダイスかもしれません。
みっつめ、
首都ジャカルタのあるジャワ島には
「ボロブドゥール」と「プランバナン」という
インドネシアの2つの世界遺産である、寺院遺跡がありますが、
ともにスケールは小さく、バリから飛行機に乗り
1日かかりで訪れるには、物足りない。
いわゆる「世界遺産を観に行こう」的な感覚には向きません。
ただ、バリは「バリヒンズー教」。
信仰の精神は深く、島全体に大小あわせ、200ものお寺があります。
そういう場所では毎日どこかのお寺で、
村の行事としての「お祭り」が行われています。
寺院を建造物として眺めるのではなく、
そこに暮らす人々の「生活に密接した慣わしに触れる」
という意味では、これほど適した島はありません。
僕などは、島の田舎を巡っていて、
こういうセレモニーに出会うと、必ず中に入れていただきます。
サロンさへきちんと巻いていれば、
浄土真宗を、お盆と法事にしか生かせていない…
こんな日本人でも、意外と快く参加させもらえます。
よっつめ、
バリ島は観光の島、外貨獲得の為の
タックスフリーの大型店は数多くあります。
しかし、その品揃えはお粗末。
有名ブランドのショップがあっても
「ニューアライバル」な品はほとんどありませんから、
目端の利いた、東京のお嬢さんには物足りないこと請け合いです。
また余談ですが、アジア諸国おなじみの
「コピー製品」を売るショップも、
目抜き通りに堂々とあったりしますが、
中国や韓国あたりのどこか卑屈な感じはなく、
明るく大らかに売っていたりするのが日常で…笑えます。
バリといえば“雑貨天国” 高級品には興味がないけど、
安くて可愛いものなら歓迎よ。
という女性には楽しい町です。
日本人一番人気は、「家具」。
クロボカン~スミニャックあたりには、
工場を備えたショップが点在していて、
日本で買う1/4らいの値段で手に入ります。
もっとも大型家具は、その重さで、船便の送料がかかります。
どうしても欲しいものなら、交渉したり、
まとめたりの労をいとわなければ…
安くて良いものが手に入ります。
僕も、以前、銀座の店用に買い付けしに行き、
巡り歩きましたが、それはそれで楽しい時間でした。
このような、よっつの誤解をクリアーしてなお、
バリ島を訪れ、なおかつ「また行きたい」と思った人は、
「バリにハマる人」です(笑)
バリ島東部のチャンディダサ…
ここは、メインエリアのクタあたりからだと、
車で1時間半くらいかかります。
4泊5日のツアーでは、ほとんど組み込まれないエリアです。
町らしき町はなく、海岸沿いに、大型のホテルが点在しています。
また護岸工事を長いことやっているため、
砂浜もなく、滞在するホテルの中で過ごすか、
ここを拠点に出かけるか…
そんな場所ですから…
あいまって、日本人はほとんどいません。
このチャンディダサをこよなく愛する日本人がいます。
ひとつのホテルのレストランで、晩飯を食っていた時の事…
「失礼ですが…日本人の方ですか?」と声をかけられた。
そのホテルで日本人を見かけることが…もう数年なかったので、
懐かしく、思い切って声をかけてくださった…という。
白いパンツにピンクのシャツ。
さらけ出した胸元には、金の鎖のペンダント。
どっしりとした体躯は全身真っ黒。
肌はつやつやしていて、抜けるような笑顔の……おっさんです。
聞けば、8年前に姪を訪ねて遊びに来て、
気に入ってしまい、以来、年の1/3は、
ここチャンディーダサの、このホテルの、
しかも同じ部屋に滞在しているといいます。
「会社を息子に譲ってね…
はじめはハワイに永住しようと思ったんだけど…
ここに来てさ…そのへんの漁師のアンちゃんとさ、
釣りしてたら…
居心地よくてね…
それで」と。
そのまま、一緒に飲むことになりました。
ホテルのスタッフから「パパ」と呼ばれるほど、
同化してしまっている彼は、
それなりのレストランにも関わらず、
シェフを呼びつけ、今朝、自分で釣ったという魚を揚げさせ、
支配人を同席させ、漁師仲間も招きいれ…
結局、その晩、彼のコテージの部屋まで、
みんなで押しかけ、宴会となりました。
こう書くと、なんか、お大臣様を想像されると思いますが、
決してそうではなく、
立派な年金生活者。
お金を贅沢に使うために過ごしているのではなく、
朝早く起きて、漁師の仲間と海に釣りに出かけて、
戻ったら、そのホテルでなんとなく、ボーッとしてたり、
わいわいしてたり、するそんな日常を楽しんでいるのです。
ホテルの朝ごはんに出るパンを、
漁師のあんちゃんにあげたり、
駄菓子屋で買った飴を子供へのおみやげと持たせたり、
慎ましやかで自然な立ち居振る舞いなのです。
夜も、高い酒やつまみなどはなく、
現地の密造酒まがいの安酒と乾き物、
彼を慕って集まった漁師たちとの会話
(といっても、彼は英語もインドネシア語もほとんど話せません。
それでもみんな楽しそうにしています)
それに加えて、海の音と満点の星と…そんなんで足りるのです。
その姿を見て、僕は、うらやましくもあり、
また、この姿は自分が求める暮らし方とは違うかも…
とふたつのことを感じました。
前者はそのままの意味。
後者は…チャンディーダサのこのホテル限定では、
僕なら飽きてしまうという意味です。
とはいえ、なかなか愉快な出会いです。
次にバリに行くときは、このホテルまで足を伸ばして、
またお会いしたいと思いました。
なにせ、彼が持参した、唯一の高級酒「山崎」を
僕がほとんど飲んでしまいましたから。
もう何度目かのバリ島…
今から17、8年前は、
マウンテンバイクを担いで訪れたことがあります。
この時は、バリ~シンガポール~マレーシアという
スケジュールを組んでいて、
バリ島には1週間くらいの滞在予定でした。
入国の税関で
「オマエ コノジテンシャ ウルノガ、モクテキダロウ」
と言われ、奥の事務所まで連れて行かれました。
新品だったことが、わざわいしたようで…
それにしても、友人と2人で2台。
商売にはあまりにもありえないシチュエーション、
どう考えてもおかしい。
…見ていると、紙切れに
「スペシャルタックス」と書いた紙をやりとりしている。
なるほど。
…やましいところはない、あくまでも突っぱねてやる…
「バリは自転車が似合う国。
車じゃ、早すぎる。
もっとゆくり楽しみたいから、持ってきたんだ」
と説明していると、事務所の奥からボス登場。
「オマエはトライアスロン好きか?」
と意味不明な質問。
「嫌いじゃないが…やったことはない」
と答えると。ニヤリと笑い
「オレはトライアスロンの選手だ」
と威張るので、
「おお!それは素晴らしい。
スポーツマンの中のスポーツマンだな」
とおだててみると
また、ニヤリと笑い
「インドネシアにようこそ」
と釈放された。
なんだか釈然としなかったが、
とにかくそんなこともあった。
バリ島には、鉄道と言うものがないので、
移動手段はバイクか車となる。
でも、ちょっとした散歩や、田舎道を巡りたい時などは、
自転車がよく似合う。
ゆっくりとペダルを漕ぐ、
そんなスピードが気持ちのよい場所だ。
その旅では、クタからデンパサールを経て、
ウブドゥまで、往復120Kmを1日走った。
目的地は「ネカ美術館」僕の大好きな場所。
片道60Kmを越える行程は、なかなかにハードで、
特にウブドゥに近づくに従って、道は坂道が多くなり、
凸凹なロードとなる。
緑や田園風景に、足を止めて休憩していると、
地元の小学生などが通り過ぎてゆく。
「スラマツパギ(おはよう)」
「パギ~」
頭にお供え物をのせて、正装した集団も見かける。
村のお寺のセレモニーだ。
みんな笑いながら…笑顔の行進は見ていても飽きない。
途中、休憩に道端のお店による、
お店といっても、看板もなければメニューもない。
プラスチックの椅子に腰を下ろし、
大して冷えてもいないビンタンビールとナシチャンプルを頼む。
ろくすっぽ味もしないが、
薬味の唐辛子を混ぜてかき込むと…これがうまい。
「エナ スカリ(うまいねえ)」
というと、店のおかみさんが、
「コンナモノガウマイノカ、ヘンナニホンジンダ」
…というような顔をしている。
たぶんこういうことが僕が好きな理由だ。
車での移動は、気さくなトランスポーターの
スカウトにかかっている。
バリ島では、タクシーの運ちゃんと個別交渉すれば、
翌日から個人タクシーに早替わりとなる。
どこまでいくら
…半日いくら
…特に、最近は何人かで訪れることが多く、
中にはバリ島初めてと言う輩もいたので、
目的地までみんなで移動するには、
このスカウティングは欠かせない。
いったん仲良くなると、バリの男は気持ちが良い。
初めは、お金持ちニホンジンでしかないが、
たぶんそういうことを計算してばかりいるのが
面倒臭いのだろう…
長い時間一緒にいると、すぐに友達の関係になってしまう。
これには、こちらのスタンスも大切で、
なんでもお任せニホンジンと、見られたままだと
どこまでいっても、最後はサヌール(前述)や
キックバックの入る中華料理店に連れていこうとする。
旅の都度、ひとりはバリのトランスポーターと仲良くなる。
家にまで連れて行かれたこともあるし、
一緒に、朝まで飲んだこともある。
そうやって知り合ったバリ人なのだが、
次の旅行の折に訪ねようとすると、連絡先が変わっていたり、
引っ越していることが多く、
再会を果たせないでいることがほんとうに多い。
まあ、小さい島だから…
いつかどこかで会うだろうと…あまり気にもしていないが。
インド系のバリ人のシモンも、そんなひとり。
奥さんが雑貨屋さんを経営していて、
その店が僕の定宿の目の前だったせいで、知り合った。
何日か一緒にいたある日、
彼が実家のあるヌガラ(クタから西に100Kmくらい)に
帰ると言うので、一緒に付いて行ったことがある。
このバリ島の西の地域も、
観光目的の日本人はほとんどいない。
ただ、いい波がたつという場所で、
サーファーたちは近所のロスメンなどを
ねぐらにして波乗りをしに来る場所。
彼の実家は、ヌガラから北に20Kmくらい、
山の上の村にある。
なんと、親父さんがその村の長老で、
今の実家は人に貸しているという。
その家とは別に、兄弟とおばあちゃんが住むという
家に着くと、そこは、山の上。
バリ海を遥かに望み、見下ろすと一面の広大なやしの木の森、
その中に寺院があり、そこからガムランが聞こえてくる。
なんとも、不思議な感覚を覚える景色。
長老の実家といえど、粗末なあばら家がわずかな敷地に点在する、
いわゆるインドネシア様式の家。
真ん中の小屋に腰を下ろしていると、
冷ご飯と香辛料をまぶした、アジの塩焼きが出てきた。
お昼ごはん。
これがまたうまかった。
…奥さんにレシピを書いてもらい、
クタのスーパーマーケットでその香辛料を買い、
日本に戻って作ってみたが、どうもうまくいかなかった。
その翌年にまたシモンとは出会えたのだが、
またその翌年…は出会えなかった。
奥さんの店もなくなっていて携帯も番号違い
…どこでどうしているのだろう。
テレマカシー…
これはインドネシア語で「ありがとう」の意味。
バリ語では「マトゥールスクサムー」という。
バリではこちらのほうが、相手には伝わる。
何かちょっとした「ありがとう」でも、この言葉を使うと、
相手の態度や表情は、とたんに柔らかく、優しくなる。
サヤスナン・パルティマカリー・オラン・スーバイ・アンダー
とは、
「あなたのような素敵な方に、ワタシは初めて出会った」
という意味。
初め、この意味の日本語を、バリの言葉に訳せと言うと、
友人のマーデーは
「もんやは ほんとにへんなことばかり言うなあ。
そんなこと他の日本人誰も聞かないよ」と言う。
「女の子口説くのか」とも言う。
そうじゃあない。
出会えたことに喜びがあれば、
それをちゃんと伝えたいし、
そういう出会いにしたいから。
というと、ヘン顔をして、
それでも30分くらい考えてくれて
…言葉をひねり出してくれる。
日本語のニュアンスを正確に翻訳するには、
インドネシアやバリの言葉では語彙が足りないのです。
だから、多少、長くもなる。
そんなこんなで、バリ島に通って…もう30回近くなります。
そろそろ、「今後のお付き合いをどうするのか」
決めなければと思っています。
これは、観光に行くには、行き過ぎたという意味であり、
それでもなお、また帰りたいなあ~と強く焦がれる
場所であるからです。
また、今の状況では、なかなか行けない日々ですが、
人生なにが、どうなるかわかりません。
いろいろうまいこと転がって、
近い将来、みんなとワイワイと
バリ島に行きたいなあ~と思うのでした。
年末にバリに行こうかなあ~なんて言う人は一報ください。
絶対に楽しい、プラン組みますから。
オラン・スーバイ・アンダー ~
寒くなると…バリ島に行きたくなる。
寒くなくても行きたいのだから、
寒くなればなおさら。
いろいろな国を旅してきて、思うことですが、
「また、訪れたいな」とは思う場所はあっても、
「いつか、ここに住みたい」とまで感じる場所は、
なかなかありません。
バリ島は、僕にとってはその唯一の場所です。
だから、バリ島に行くときは
「帰る」という気分になります。
それは、日本で僕が生まれた故郷と同じ感覚かと問われれば、
それは明らかに違う感じで、
原点回帰…ルーツに戻るというのではなく、
ただ、最後はこういうところで人生を終えたら幸せだろうなあ…
という漠然とした感覚が深くあります。
こういう思いを抱くということは、そうそうないことで、
その意味では、この島を知ってよかったとつくづく思うわけです。
バリ島を僕と同じように感じて、
永住している日本人は、数多くいます。
また、動機は違っていても、
実際に住んでしまった日本人も多い場所です。
何日か滞在すると、そんな日本人に何人も出くわします。
また、そこまでいかなくても、
いまでは、ハワイと双璧の
「日本人がリピートする海外のリゾート地」ですから、
回りを見渡せば、一度は訪れたことがある方が必ず何人かはいます。
そして、その中には、…「期待と違った」…
「一度でいいや」 という方も大勢います。
こういう方の多くのパターンは4つ。
ひとつめ
「モルディブやグレートバリアリーフのような
海に出会えると勘違いしている方」
ふたつめ
「東南アジアの猥雑さに心惹かれ、
バンコクの裏町をこよなく愛する方」
みっつめ
「アユタヤやアンコールワットのような、
ヒンドゥや仏教の寺院遺跡に惹かれている方」
よっつめ
「DFS…命の方」
まずひとつめ、
南部…特に観光のメインエリアのクタ・レギャンあたりから、
バドゥン半島のの反対側のヌサドゥアや
付け根のサヌールあたりの海は、
決してエメラルドグリーンではありません。
もっといえば、バリ島の反対側…
車で100Km南のロヴィナビーチにしても、
モルディブのような、限りなく
透明の珊瑚の浅瀬などを目にすることはできません。
そうですねえ~
遠州灘の遠浅の海といった風情…
こういうと夢も希望もありませんが、
少なくとも、ハワイのワイキキの浜辺くらいを想像していたら
…そのギャップに相当戸惑います。
もちろんダイビングはいたるところでできますし、
サーファーの島でもありますから、
マリンスポーツは盛んですが、クタの浜辺に、
白い砂浜とパームツリーと海の青を求めてはいけません。
もちろん、海に漕ぎ出して、陸地から離れ、
近隣のレンボガン島やロンボク島まで足を伸ばせれば、
その様子は変わります。
どうしても味わいたい方は、そのつもりで、1日は、
スケジュールに組み入れる必要があると認識してください。
ふはつめ、
よこしまな思いで訪れるおっさんには、物足りない場所です。
サヌールにはいわゆる「娼婦の館」なるものが存在しますが、
ベトナムやタイ、韓国やフィリピンの作り上げた
欲望地帯はここでは無縁。
ちなみに、インドネシア人の男性は“女の子”大好きです。
そこだけに限れば、「東洋のイタリア人」といっても
差し支えないくらいに。
そして、そのターゲットは「ニホンノオンナノコ」なのです。
レギャンあたりの安宿に泊まると、
深夜、ホテルのフロントあたりで、
バリの男性と日本の娘とのバトルを目にします。
「ドウシテ…ヘヤニイッテハ、ダメ?
…ワタシイチニチ、キョウコ二、ツキアッタ」
「ええっ!?そんなあ…感謝しているわ…ありがとう…
でも、それとこれとは…」
「ナゼ?ワタシ…キョウコノコト…スキ」
「そ…そんなあ…今日あったばかりで…そんなぁ…困るわぁ~」
「スキナモノハスキ…ダカラ、イチニチ、キョウコトイタ」
「………」
「キョウコハ、ワヤン…スキジャナイカ?」
「…いやあ…いい人だとわ思うけど…」
「イイヒト…キライカ?」
「…えっ……そういうわけじゃあ…」
「…」
深夜、正々堂々、真っ向から挑む、
バリの青年の潔さと粘りにはいつも感服します。
で、翌朝、クタレギャン通りを、
手をつないで歩いていたりしますから…
もう…おみそれします。
そう考えると、日本人のおっさんには物足りなくても、
日本人の娘さんにはパラダイスかもしれません。
みっつめ、
首都ジャカルタのあるジャワ島には
「ボロブドゥール」と「プランバナン」という
インドネシアの2つの世界遺産である、寺院遺跡がありますが、
ともにスケールは小さく、バリから飛行機に乗り
1日かかりで訪れるには、物足りない。
いわゆる「世界遺産を観に行こう」的な感覚には向きません。
ただ、バリは「バリヒンズー教」。
信仰の精神は深く、島全体に大小あわせ、200ものお寺があります。
そういう場所では毎日どこかのお寺で、
村の行事としての「お祭り」が行われています。
寺院を建造物として眺めるのではなく、
そこに暮らす人々の「生活に密接した慣わしに触れる」
という意味では、これほど適した島はありません。
僕などは、島の田舎を巡っていて、
こういうセレモニーに出会うと、必ず中に入れていただきます。
サロンさへきちんと巻いていれば、
浄土真宗を、お盆と法事にしか生かせていない…
こんな日本人でも、意外と快く参加させもらえます。
よっつめ、
バリ島は観光の島、外貨獲得の為の
タックスフリーの大型店は数多くあります。
しかし、その品揃えはお粗末。
有名ブランドのショップがあっても
「ニューアライバル」な品はほとんどありませんから、
目端の利いた、東京のお嬢さんには物足りないこと請け合いです。
また余談ですが、アジア諸国おなじみの
「コピー製品」を売るショップも、
目抜き通りに堂々とあったりしますが、
中国や韓国あたりのどこか卑屈な感じはなく、
明るく大らかに売っていたりするのが日常で…笑えます。
バリといえば“雑貨天国” 高級品には興味がないけど、
安くて可愛いものなら歓迎よ。
という女性には楽しい町です。
日本人一番人気は、「家具」。
クロボカン~スミニャックあたりには、
工場を備えたショップが点在していて、
日本で買う1/4らいの値段で手に入ります。
もっとも大型家具は、その重さで、船便の送料がかかります。
どうしても欲しいものなら、交渉したり、
まとめたりの労をいとわなければ…
安くて良いものが手に入ります。
僕も、以前、銀座の店用に買い付けしに行き、
巡り歩きましたが、それはそれで楽しい時間でした。
このような、よっつの誤解をクリアーしてなお、
バリ島を訪れ、なおかつ「また行きたい」と思った人は、
「バリにハマる人」です(笑)
バリ島東部のチャンディダサ…
ここは、メインエリアのクタあたりからだと、
車で1時間半くらいかかります。
4泊5日のツアーでは、ほとんど組み込まれないエリアです。
町らしき町はなく、海岸沿いに、大型のホテルが点在しています。
また護岸工事を長いことやっているため、
砂浜もなく、滞在するホテルの中で過ごすか、
ここを拠点に出かけるか…
そんな場所ですから…
あいまって、日本人はほとんどいません。
このチャンディダサをこよなく愛する日本人がいます。
ひとつのホテルのレストランで、晩飯を食っていた時の事…
「失礼ですが…日本人の方ですか?」と声をかけられた。
そのホテルで日本人を見かけることが…もう数年なかったので、
懐かしく、思い切って声をかけてくださった…という。
白いパンツにピンクのシャツ。
さらけ出した胸元には、金の鎖のペンダント。
どっしりとした体躯は全身真っ黒。
肌はつやつやしていて、抜けるような笑顔の……おっさんです。
聞けば、8年前に姪を訪ねて遊びに来て、
気に入ってしまい、以来、年の1/3は、
ここチャンディーダサの、このホテルの、
しかも同じ部屋に滞在しているといいます。
「会社を息子に譲ってね…
はじめはハワイに永住しようと思ったんだけど…
ここに来てさ…そのへんの漁師のアンちゃんとさ、
釣りしてたら…
居心地よくてね…
それで」と。
そのまま、一緒に飲むことになりました。
ホテルのスタッフから「パパ」と呼ばれるほど、
同化してしまっている彼は、
それなりのレストランにも関わらず、
シェフを呼びつけ、今朝、自分で釣ったという魚を揚げさせ、
支配人を同席させ、漁師仲間も招きいれ…
結局、その晩、彼のコテージの部屋まで、
みんなで押しかけ、宴会となりました。
こう書くと、なんか、お大臣様を想像されると思いますが、
決してそうではなく、
立派な年金生活者。
お金を贅沢に使うために過ごしているのではなく、
朝早く起きて、漁師の仲間と海に釣りに出かけて、
戻ったら、そのホテルでなんとなく、ボーッとしてたり、
わいわいしてたり、するそんな日常を楽しんでいるのです。
ホテルの朝ごはんに出るパンを、
漁師のあんちゃんにあげたり、
駄菓子屋で買った飴を子供へのおみやげと持たせたり、
慎ましやかで自然な立ち居振る舞いなのです。
夜も、高い酒やつまみなどはなく、
現地の密造酒まがいの安酒と乾き物、
彼を慕って集まった漁師たちとの会話
(といっても、彼は英語もインドネシア語もほとんど話せません。
それでもみんな楽しそうにしています)
それに加えて、海の音と満点の星と…そんなんで足りるのです。
その姿を見て、僕は、うらやましくもあり、
また、この姿は自分が求める暮らし方とは違うかも…
とふたつのことを感じました。
前者はそのままの意味。
後者は…チャンディーダサのこのホテル限定では、
僕なら飽きてしまうという意味です。
とはいえ、なかなか愉快な出会いです。
次にバリに行くときは、このホテルまで足を伸ばして、
またお会いしたいと思いました。
なにせ、彼が持参した、唯一の高級酒「山崎」を
僕がほとんど飲んでしまいましたから。
もう何度目かのバリ島…
今から17、8年前は、
マウンテンバイクを担いで訪れたことがあります。
この時は、バリ~シンガポール~マレーシアという
スケジュールを組んでいて、
バリ島には1週間くらいの滞在予定でした。
入国の税関で
「オマエ コノジテンシャ ウルノガ、モクテキダロウ」
と言われ、奥の事務所まで連れて行かれました。
新品だったことが、わざわいしたようで…
それにしても、友人と2人で2台。
商売にはあまりにもありえないシチュエーション、
どう考えてもおかしい。
…見ていると、紙切れに
「スペシャルタックス」と書いた紙をやりとりしている。
なるほど。
…やましいところはない、あくまでも突っぱねてやる…
「バリは自転車が似合う国。
車じゃ、早すぎる。
もっとゆくり楽しみたいから、持ってきたんだ」
と説明していると、事務所の奥からボス登場。
「オマエはトライアスロン好きか?」
と意味不明な質問。
「嫌いじゃないが…やったことはない」
と答えると。ニヤリと笑い
「オレはトライアスロンの選手だ」
と威張るので、
「おお!それは素晴らしい。
スポーツマンの中のスポーツマンだな」
とおだててみると
また、ニヤリと笑い
「インドネシアにようこそ」
と釈放された。
なんだか釈然としなかったが、
とにかくそんなこともあった。
バリ島には、鉄道と言うものがないので、
移動手段はバイクか車となる。
でも、ちょっとした散歩や、田舎道を巡りたい時などは、
自転車がよく似合う。
ゆっくりとペダルを漕ぐ、
そんなスピードが気持ちのよい場所だ。
その旅では、クタからデンパサールを経て、
ウブドゥまで、往復120Kmを1日走った。
目的地は「ネカ美術館」僕の大好きな場所。
片道60Kmを越える行程は、なかなかにハードで、
特にウブドゥに近づくに従って、道は坂道が多くなり、
凸凹なロードとなる。
緑や田園風景に、足を止めて休憩していると、
地元の小学生などが通り過ぎてゆく。
「スラマツパギ(おはよう)」
「パギ~」
頭にお供え物をのせて、正装した集団も見かける。
村のお寺のセレモニーだ。
みんな笑いながら…笑顔の行進は見ていても飽きない。
途中、休憩に道端のお店による、
お店といっても、看板もなければメニューもない。
プラスチックの椅子に腰を下ろし、
大して冷えてもいないビンタンビールとナシチャンプルを頼む。
ろくすっぽ味もしないが、
薬味の唐辛子を混ぜてかき込むと…これがうまい。
「エナ スカリ(うまいねえ)」
というと、店のおかみさんが、
「コンナモノガウマイノカ、ヘンナニホンジンダ」
…というような顔をしている。
たぶんこういうことが僕が好きな理由だ。
車での移動は、気さくなトランスポーターの
スカウトにかかっている。
バリ島では、タクシーの運ちゃんと個別交渉すれば、
翌日から個人タクシーに早替わりとなる。
どこまでいくら
…半日いくら
…特に、最近は何人かで訪れることが多く、
中にはバリ島初めてと言う輩もいたので、
目的地までみんなで移動するには、
このスカウティングは欠かせない。
いったん仲良くなると、バリの男は気持ちが良い。
初めは、お金持ちニホンジンでしかないが、
たぶんそういうことを計算してばかりいるのが
面倒臭いのだろう…
長い時間一緒にいると、すぐに友達の関係になってしまう。
これには、こちらのスタンスも大切で、
なんでもお任せニホンジンと、見られたままだと
どこまでいっても、最後はサヌール(前述)や
キックバックの入る中華料理店に連れていこうとする。
旅の都度、ひとりはバリのトランスポーターと仲良くなる。
家にまで連れて行かれたこともあるし、
一緒に、朝まで飲んだこともある。
そうやって知り合ったバリ人なのだが、
次の旅行の折に訪ねようとすると、連絡先が変わっていたり、
引っ越していることが多く、
再会を果たせないでいることがほんとうに多い。
まあ、小さい島だから…
いつかどこかで会うだろうと…あまり気にもしていないが。
インド系のバリ人のシモンも、そんなひとり。
奥さんが雑貨屋さんを経営していて、
その店が僕の定宿の目の前だったせいで、知り合った。
何日か一緒にいたある日、
彼が実家のあるヌガラ(クタから西に100Kmくらい)に
帰ると言うので、一緒に付いて行ったことがある。
このバリ島の西の地域も、
観光目的の日本人はほとんどいない。
ただ、いい波がたつという場所で、
サーファーたちは近所のロスメンなどを
ねぐらにして波乗りをしに来る場所。
彼の実家は、ヌガラから北に20Kmくらい、
山の上の村にある。
なんと、親父さんがその村の長老で、
今の実家は人に貸しているという。
その家とは別に、兄弟とおばあちゃんが住むという
家に着くと、そこは、山の上。
バリ海を遥かに望み、見下ろすと一面の広大なやしの木の森、
その中に寺院があり、そこからガムランが聞こえてくる。
なんとも、不思議な感覚を覚える景色。
長老の実家といえど、粗末なあばら家がわずかな敷地に点在する、
いわゆるインドネシア様式の家。
真ん中の小屋に腰を下ろしていると、
冷ご飯と香辛料をまぶした、アジの塩焼きが出てきた。
お昼ごはん。
これがまたうまかった。
…奥さんにレシピを書いてもらい、
クタのスーパーマーケットでその香辛料を買い、
日本に戻って作ってみたが、どうもうまくいかなかった。
その翌年にまたシモンとは出会えたのだが、
またその翌年…は出会えなかった。
奥さんの店もなくなっていて携帯も番号違い
…どこでどうしているのだろう。
テレマカシー…
これはインドネシア語で「ありがとう」の意味。
バリ語では「マトゥールスクサムー」という。
バリではこちらのほうが、相手には伝わる。
何かちょっとした「ありがとう」でも、この言葉を使うと、
相手の態度や表情は、とたんに柔らかく、優しくなる。
サヤスナン・パルティマカリー・オラン・スーバイ・アンダー
とは、
「あなたのような素敵な方に、ワタシは初めて出会った」
という意味。
初め、この意味の日本語を、バリの言葉に訳せと言うと、
友人のマーデーは
「もんやは ほんとにへんなことばかり言うなあ。
そんなこと他の日本人誰も聞かないよ」と言う。
「女の子口説くのか」とも言う。
そうじゃあない。
出会えたことに喜びがあれば、
それをちゃんと伝えたいし、
そういう出会いにしたいから。
というと、ヘン顔をして、
それでも30分くらい考えてくれて
…言葉をひねり出してくれる。
日本語のニュアンスを正確に翻訳するには、
インドネシアやバリの言葉では語彙が足りないのです。
だから、多少、長くもなる。
そんなこんなで、バリ島に通って…もう30回近くなります。
そろそろ、「今後のお付き合いをどうするのか」
決めなければと思っています。
これは、観光に行くには、行き過ぎたという意味であり、
それでもなお、また帰りたいなあ~と強く焦がれる
場所であるからです。
また、今の状況では、なかなか行けない日々ですが、
人生なにが、どうなるかわかりません。
いろいろうまいこと転がって、
近い将来、みんなとワイワイと
バリ島に行きたいなあ~と思うのでした。
年末にバリに行こうかなあ~なんて言う人は一報ください。
絶対に楽しい、プラン組みますから。
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