紋谷のソコヂカラ

平成24年12月20日(木) 13時2分

投稿日時:2013/01/07(月) 22:11


 平成241220() 132分、

 紋谷税さんは入院先の
 神奈川県立がんセンターで亡くなりました。

 10日前に51歳になったばかり。
 入院からわずか半日の、

 近しいものにとっては「急逝」でした。

 紋谷さんは、このブログを

 「きちっと終わりにしたい」
 と言っていました。


 「もう長い文章を書くのは無理なので、
  篠塚さん、聞き書きでお願いします」

 と言われていました。


 しかし、
 その機会が訪れぬまま、
 最期のときが来てしまいました。


 紋谷さんを応援し、
 気に懸けてくださっていた方々のために、

 篠塚が彼の最期の様子をここに記し、
 ブログの締めとさせていただこうと思います。

 紋谷さん、それでいいよね。
 

 長い長い話になりますが、
 できるだけ詳細に記したいと思います。

 

 【1210()
  紋谷さん、誕生日にはしゃぐ
 

 紋谷さんは10月から要介護の認定を受け、
 自宅で過ごしていました。

 食欲が落ち
 (正確には
 「食欲は強烈にあるものの、
  食べ物がのどを通らない」)、

 筋力が落ち、移動には車いすを頼る
 ようになっていましたが、

 お馴染みの“紋谷節”は健在でした。

 「自分は、51歳になってしまうんですかね?」と
 自虐的な笑いと共に話していた紋谷さんは、
 1210()にしっかりと誕生日を迎えました。

 この日はごく内輪の人間が集まって、
 簡単なパーティを開きました。

 紋谷さんは後輩の西谷君にカニを買ってこさせ、
 「毛ガニはオレのものだ!」と言いながら、

 珍しくはしゃいでいました。

 (西谷君は、このブログ上で毎年末、
  映画評論対談をしていた相方です)

 実はその前日にも何人かが紋谷家を訪問。
 菊池君一家には「老舗旅館の朝食が食べたい」
 と注文し、

 しかしわざわざ持参された料理には手を付けず、
 冷蔵庫にあった納豆でご飯をおかわりして
 食べました。

 

 この2日間に、はしゃぎすぎたのでしょうか。
 翌日からの紋谷さんは少々疲れ気味でした。
 11日にもらったメールには

 「今朝から 苦しい
  空気足りない症候群です」

 と書かれていました。

 


 【1216()
  投票を断念


 この前日に酸素吸入器を
 付けることになった顛末は、

 紋谷さん自身がフェイスブックに
 投稿している通りです。

 そして日曜。

 以前から

 「今回の選挙はぜひ投票したいので、
  介助してほしい」

 と言われていた私は

 紋谷家を訪れました。

 

 「こんなの付けられちゃったんですよ。
  意味あるのかなぁ」

 このときにはまだ、紋谷さんは
 吸入器を付けたり外したりしていました。

 けれど、こんなの無意味に付けるわけがない。
 酸素吸入器を外し、
 車いすで投票所まで行くのは、

 すでに紋谷さんには
 かなり勇気のいる行動になっていました。


 「今は、ちょっと無理です。
  でもギリギリまで様子を見たいので、
  時間をください。
  で、その間、篠塚さんは
  『みんゴル』をやってください。
  お願いします」


 よくわからないのだけれど、
 11月の後半から、紋谷さんはやたらと
 『みんなのゴルフ
6』を
 やりたがるようになりました。

 発売前に
Amazonに予約し、
 それが発売日に到着しないと
 私をゲーム屋に走らせ。
 最初は対戦モードで遊んでいたのですが、
 この頃には、もうゲームをするのも
 つらい状態のようで、家に行くたびに

 「篠塚さん、『みんゴル』お願いします」

 と言っていました。
 ええ、誕生日にもやらされました。


 17時。紋谷さんは、

 「ちょっと自信がないので、
  投票はやめにします」

 と言いました。


 「その代わり、篠塚さん、
  すき焼きを作ってください」

 とのこと。

 「高級な肉をお願いします。
  ただ僕は赤身が好きなので、
  あまりサシの入っていないものを」

 …そんな高級牛肉、あるのかよ。
 しかも近所のスーパーに。

 とにかく材料を買いそろえ、
 冷蔵庫にあったすき焼きのたれを
 「これを使えばいいですかね」と差し出すと、
 ペロリと味見した紋谷さんは


 「ダメですね。
  酒と砂糖と醤油を入れて、
  好みの味にしましょう」

 と言います。

 コショウだ、七味だ、なんだかんだと
 注文されるたびに
私は台所へ取りに行き、
 ベッド横のテーブルに運びます。

 そうやって立ったり座ったりしていると、
 紋谷さんは

 「篠塚さん、落ち着いて
  ここに座ってください」と怒ります。


 …自分が取ってこいって言ったくせに。

 出来上がったすき焼きの、
 焼き豆腐と肉を一口だけ、
 紋谷さんは食べました。

 

 

 【1218()
  
アロママッサージを堪能する

 この日は、私と後輩の鈴木伸子とで
 紋谷家に出かけました。

 紋谷さんの「背中を押してください」は、
 すでに見舞客が最初にお願いされる
 定番となっていましたが、

 今思うと、紋谷さんの肺は、
 すでにマッサージなどの刺激を与えないと

 呼吸運動ができなくなっていたのではないか
 と思います。


 朝、起き抜けの呼吸の苦しさを、
 紋谷さんはフェイスブックで何度も書いています。

 誕生日前後から、呼吸を確立するのに
 午前中一杯を要する日々が続いていました。

 そしてこの火曜日は、
 14時過ぎまでまともな会話ができない状態でした。

 紋谷さんは、

 「昨日、一昨日は、苦しくて死ぬかと思いました。
  でも今朝は、あまりの苦しさに、
  もう死にたいと思いました」

 と、あとでぽつりと言っていました。

 そんな状態の紋谷さんを、
 私と鈴木伸子は交替でマッサージし続けました。

 鈴木伸子がアロマオイルを持参していたので、
 背中だけでなく手や足まで、
 紋谷さんは全身から芳香を
 漂わせる病人となりました。

 体調が回復した紋谷さんは、
 鈴木伸子に向かって、
 普段めったに話をしない
 自身の大学時代の様子を語りました。

 「立教大学に落ちたことで、
  僕の人生は変わったんですよ。

  浪人して國學院へ入って、
  でもほとんどアルバイトに
  時間を使っていたなぁ。

  3年生の時に、ヤミ聴講生として早稲田へ行って、
 『この先生の授業を受けたい!』という
  心理学の教授に出会いましてね。
  
大学を卒業するのは親との約束だったので、
  
4年生の時には金と知恵を使って
 『いかに授業に出ずに単位を取るか』を実践し、
  
受験勉強に集中しましたよ」

 それから入学、退学、就職、退職、
 そしてリクルート入社…

 私も、まとめて聞くのは初めての、
 長いモノローグでした。


 夜には、
 「ドライカレーを作ろうと
  思っていなかったけれど、
  
結果的にできてしまったドライカレー」
  を作れ、と言われました。

 北海道から送られてきた
 ジャガイモもいっしょに炒めてほしい、
 とのことでしたが、
指定されたジャガイモの量が
 思いのほか多かったので別々に炒めたところ、

 「これは、私がお願いしたものとは、
  違いますよね」と言って、

  箸を付けませんでした。

 …ったく、このわがままオヤジめ。
 その代わり、付け合わせに作った
 サラダを珍しくバリバリと食べました。


 実は、数日前から紋谷さんは
 自力でトイレへ行くのが難しくなっていました。

 ベッドのすぐ横に置いた車いす、
 そこに乗り移ることですら大仕事で。


 だから、私たちがいる間に
 トイレに行っておきたい。

 何かあったら介助をしてもらいたい。

 「野菜を食べれば、お通じに
  いいんじゃないかと思って」と紋谷さん。


 …そんなに急に、効くはずもないのに。
 かつてはほとんど見せなかった、
 こんなお茶目な姿を、
 晩年の紋谷さんは
 よく披露するようになっていました。


 寂しがり屋で、怒りっぽくて、甘えん坊で。
 物心が付いた頃から徹底した
 “格好つけ屋”だった紋谷さんとしては、

 病気のために格好をつけ通せなくなったとき、
 多くの人に
 
 「お見舞いになんて来なくていい」
 と言い渡した。

 それもまた、彼なりの格好つけ
 だったのだと思います。

 
 結局、その夜は終電ギリギリまで
 紋谷家にいました。


 「篠塚さん、泊まっていってください」

 と、紋谷さんは何度も言いました。

 この時点で、彼は自分の体調に対して
 かなり大きな不安を感じていたのだと思います。



 【1219()
  紋谷さん入院す

 

 様子が気になった私は、
 朝の
10時に紋谷さんを訪ねました。
 彼の最後の5年間を
 いちばん近くで支えた
 恋人・長浜美和さんの出勤と入れ替わりで、

 私は紋谷さんに付き添いました。

 その日はたくさんの人が来ました。

 午前中には酸素吸入器のメンテナンス業者さん。
 続いてマッサージの先生。
 午後には紋谷さんお気に入りの看護師さん。

 しかし、紋谷さんは非常に苦しい様子で、

 「水を、ください」
 「背中を、お願いします」

 といった短い会話しかできない状態でした。


 ただ、看護師さんが来る前には
 歯を磨き、服を着替えました。

 こんなときでも紋谷税は紋谷税でした。

 夕方には家事をやってくれる
 ヘルパーさんが来ました。


 「紋谷さん、ヘルパーさんに
  やってもらうことはありますか?」

 とたずねると、
彼は苦しげに息をつきながら、

 「シュウマイと、春巻を、
  作ってもらってください」
  
と言いました。


 …こいつ、絶対に食べないよな。
 そう思いましたが、
 言い出したら聞かない男ですので、

 すぐにネットでレシピを調べて、
 私は材料を買いに走りました。


 ヘルパーさんに調理をお願いしている最中。
 紋谷さんが私を手招きします。
 「なんですか?」とそばに行くと、
 荒い息をつきながら、

 「春巻きの、具を炒める、
  ときには、片栗粉を、
  入れてください」。


 …最後の最後まで、食へのこだわりを
 貫き通す紋谷さんでありました。


 そして。

 「紋谷さん、できましたよ!」

 「私は、いりません。篠塚さん、食べてください」

 …やっぱりな。そうだと思ったよ。

 それでも紋谷さんは、
 人がモリモリと食べる様子を見ることで

 自分の食欲を満足させる
 ような面もありましたので、

 私は彼のそばで食べました。
 おいしかった。

 その日の紋谷さんは、
 それまでとは明らかに違っていました。

 夕方になっても、夜になっても
 呼吸を確保できません。

 「紋谷さん、これはそろそろ、病院じゃないかな」
 私は言いました。
 

 22日の土曜日には、
 静岡からお母さんと弟さんが来る。


 翌週の25日には、月例検査のために入院する。
 それまでは、なんとか自宅でがんばりたい。
 それが紋谷さんの決めたスケジュール。

 頑固な彼としては、よほどのことがなければ、
 それを変えたくない。


 「薬を、飲みますから。
  これが効くか、どうかで、
  判断、させてください」

 夜の8時頃、
 彼はそう言って“麻薬”を飲みました。


 私は背中をさすり続けます。

 「どうですか?」

 30分ほど経って、私は彼にたずねました。

 「9時まで、待って、ください」

 なぜ9時なのかな。
 その答えは、
9時になるとわかりました。
 美和さんが帰ってきたのです。

 美和さんに今日一日の様子を話し、

 「病院に入ったほうがいいと思う」と伝えます。


 彼女も同じ意見でした。

 「朝起きると、もしかしたら
  モンちゃんが死んでいるんじゃないかと思って、
  怖い。

  毎日どんどん悪くなっているし、
  私も篠塚さんもいないときに
  何かあったらと思うと…」


 それを聞いて、紋谷さんは言いました。

 「入りますか」
 

 訪問看護の医師に電話をし、
 往診の末、がんセンターへの入院が決定。

 自家用車での搬送は「危険だ」と
 医師に言われ、救急車で病院へ。


 この救急車内が、修羅場でした。

 救急車は「揺れる」とは聞いていたものの、
 これほどとは思いませんでした。

 揺れると、人はそれに耐えようとして
 体に力を入れます。

 その「耐える」という動作が、
 紋谷さんにはとんでもない運動なのです。

 だってその日は、
 コップを持って口に運ぶことすら大変でしたから。

 水を飲むために、
 一瞬呼吸を止める
 (私たちは、そんなことを意識しませんが)、

 それだけで「ハア、ハア」と
 軽い呼吸困難になっていましたから。


 揺れの中で、紋谷さんは呼吸ができず、
 パニックになります。


 「背中を! 背中を!」

 私と救命士は、揺れに耐えながら
 紋谷さんの背中をさすり続けました。


 20分ほどで病院に着き、
 病室に入ってからも、
 発作のような呼吸困難は続きました。


 夜勤の看護師さんや当直医があたふたと動き、
 痰を吸引し、

 「どうですか、楽になりましたか?」
 などとしきりに声をかけます。


 紋谷さんは、苦しい息で言いました。

 「すみません。放っておいて、ください」


 私も同意見でした。

 紋谷さんは、周囲でバタバタと
 動かれる状況を非常に嫌います。

 それ以上できる処置もないので、
 皆さんに退室いただき、
 私と美和さんが交替で背中をさすり続けました。


 11時半頃、紋谷さんは
 その日最も良好な状態になりました。

 息は荒いものの、
 長い会話もできるようになったのです。


 遅い時間でしたが、弟の稿さんに電話を入れ、

 「少し早く入院することになったけど、
  心配は要らない。
22日は、家でなく
  がんセンターに来てほしい」

 と直接伝えました。


 その後、

 「携帯を充電するのに電源が遠いから、
  明日は延長コードを持って来てほしい」

 とか

 「裸足で救急車に乗ってしまったので、
  つっかけを持って来てくれ」

 とか、


 ごくありふれた他愛ない会話をし、
 日付が変わったのを契機に、
 私と美和さんは病院を辞去いたしました。


 「じゃ紋谷さん、
  また明日の午後にでも来るから」

 と言い残して。



 【1220()
  逝去


 マッサージ続きで疲れたのと、
 入院させて少しほっとしたこともあって、
 その夜は少し多めに酒を飲み、
 翌日の目覚めが遅くなってしまいました。


 せっかちな紋谷さんのことだから、
 「延長コードが遅い!」とか怒ってるだろうな、
 なんて思いながら出かける支度をし、
 まさに出かけようとした
12時過ぎに、
 病院から電話が入りました。


 「紋谷さんの意識レベルが低下しており、
  危険な状態です」


 え? どういうこと?


 「あの、それはつまり、
  いわゆる危篤ということですか?
  亡くなりそうだ、と?」


 「お時間までは言えませんが、かなり危険かと…」

 聞きたいことはたくさんあったけど、
 とにかくすぐに病院へ向かいました。


 病院のある二俣川駅までは、
 私の家の最寄り駅から約
10分。

 落ち着け。タクシーよりも、
 絶対に電車が早い。落ち着け。


 あ、そうだ、メール。
 メールを送らなきゃ。


 …数ヶ月前、私は紋谷さんから
 ひとつの依頼をされていました。


 「篠塚さん、もし私が
  “いよいよ”というときになったら、

  この文面を、この10人にメールしてください。
  他には一切、知らせる必要はありません」

 ジリジリと電車を待ちながら、
 少し震える手で保存していた
 メッセージを呼び出し、送信。


 それは、こんな文面でした。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 もんや です

 

 このメールは 僕がいよいよとなった時に

 僕の死に目に会いに来てください

 というメールです


 今が朝なのか深夜なのか

 僕が一体 今どこにいるのか

 僕自身の意識があるのかないのかも

 まったくわかりません


 ただ 死ぬ間際に

 僕に多少なりとも余力があったなら

 最後に顔が見たいなぁ

 という方々に 勝手に送っています


 皆さんのアドレスと

 この文面はもう暫く前に

 篠塚さんに託していました


 恐らくかなりの確率で

 行けないってタイミングなのでしょうが

 たまたまってこともありましょう


 ちなみに 飲み会のお誘い連絡ではないので

 行けるも行けないも 返信は無用です


 いらしてくれるなら

 それまで頑張って生きてますので

 よろしくお願いします

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 二俣川駅からタクシーに飛び乗り、
 入院している
B3階へ駆け上がると、
 ナースセンターの看護師さんが
 「あちらです」と、
 昨晩とは違う部屋を指さします。


 病室へ入ると、
 若い看護師さんが私の顔を見て言いました。


 「ああ、篠塚さん。
  今、お亡くなりになりました」


 本能的に時計を見る。

 136分。

 紋谷さんの傍らに
 置かれていたカルテには、
 死亡時刻
132分と書かれていました。

 ごめん、紋谷さん。
 間に合わなかったよ。
 オレっていっつもこうなんだよなぁ。


 「お耳は最後まで生きているそうですから、
  ぜひ声をかけてあげてください」

 看護師さんはそう言うけど、
 今さらかける言葉なんかない。

 「紋谷さん…」

 それだけ口にして、
 紋谷さんの手を握りました。


 まだ温かくて。顔だって、
 いつも寝ているときと同じで。

 なんだか、いきなり「フッ」と
 息を吸って起き上がるような
 気がしてなりませんでした。


 そのうち、手が、
 どんどん冷たくなっていくのです。

 ああ、紋谷さんの魂が抜けて行く。


 後から聞いた話をまとめます。
 私たちが病院を出た後、
 夜中の
2時過ぎに、マッサージの先生が
 「なんとなく気になって」
 紋谷さんを訪ねたのだそうです。


 「苦しそうな状態で、
 『背中を押してください』と言うので、
 しばらくマッサージしていたんですよ。
 そのうち発作のような状態になって、
 『看護師を呼んでください』と言われて
 ナースセンターへ飛んでいき、
 あとは痰の吸引など処置が始まったので、
 私はそのまま帰りました」

 とマッサージ師さん。


 その後、かなり苦しい状態が続いたため、
 医師が「眠れるように」と薬を処方したそうです。


 「翌朝に回診した際には、
  呼びかけに反応していらっしゃったのですが」
 と担当医。


 その前後に、美和さんが
 出勤前に病室を訪れたそうです。


 「つっかけを届けて、
  眠っていたので
 『モンちゃん、行ってくるからね』
  と声をかけて出かけました」
 と美和さん。


 結局、紋谷さんは目覚めることなく、
 酸素不足に苦しめられることもなく、

 徐々に生体反応が下がり、
 文字通り「眠るように」亡くなったのでした。



 【その後】

 あのタイミングで入院させたのは、
 果たして正しかったのか。

 せめて救急車でなく、
 自家用車で静かに
 運んであげるべきではなかったか。


 夜中の薬の投与は、
 もう少し待ってもらうべきではなかったか。

 …多くの遺族が感じるであろう
 「悔い」を、私と美和さんは感じていました。


 末期がんで、2012年の初めには
 「あと
12ヵ月で普通の生活は難しくなる」
 という実質的な余命宣言を受け、
 日々衰えていく姿に身近に接し…

 もう充分に覚悟はできていたはずなのに、
 それでも最期は「突然」でした。


 けれど、複数の看護師さんから

 「紋谷さん、『最後はこの病院で死ぬよ』
  っておっしゃっていたんですよ」

 と聞かされ、

 主治医から
 「正直、2012年の正月には
  紋谷さんが緊急搬送されてくる
  と思っていました。
  この状態で、よくぞ頑張りました」


 と言われあのまま自宅にいても、
 遅かれ早かれ最後の発作はやってきたでしょう。

 おそらく、数日中に。

 そのとき、そばに誰かいるとは限らなかった。

 ギリギリまで自宅で過ごし、
 これしかないというタイミングで
 病院に運ばせ、
 最短時間を病院で過ごして、
 すっと去っていった。

 さすが紋谷さんだ。


 もっとも、本人は、
 もう少しだけ生きるつもりだった
 と思いますが。

 

 彼について語り始めると、
 際限がありません。

 おそらく多くの方も同じだろうと思います。

 本当は、こうして、
 さも自分だけが頑張って
 最期を看取ったように語るのは、

 とてもいやなのです。

 実に多くの方々が、
 それぞれの立場で紋谷さんに接し、
 支え、
独自の関係を築いていたことを、
 私は知っていますから。

 

 それでも、

 「看取り役」を任された者として、
 お伝えすべきだと思うことを
 書き連ねました。


 きっと

 「篠塚さん、話、長いよ!」

 と
紋谷さんは本気で怒っていると思いますが、

 紋谷さん、
 あんたがオレを選んだのだから、
 しかたないよ。


 

 さて。

 いずれ時期を見て、
 このブログも閉めさせていただくことになります。

 何らかの形でアーカイブ化したい
 と考えていますが、
 どうなりますか。

 いずれにしましても、
 長い間の応援、
 本当にありがとうございました。

 私が言うことでもないけれど、
 素直にお礼の言えない
 男に成り代わって、
 深く、深く、感謝いたします。

 
 篠塚義成

コメント


うむ、なるほど。まぁおっつけ。

Posted by ツルピカハゲマル at 2013/01/08 00:50:22+09 PASS:

まずは、篠塚さん、こちらのブログを残していただいて、ありがとうございます。

おかげ様で、紋谷さんとお会いしていなかった期間をすこし知ることができました。

たまたま、600店舗あるといわれている銀座の飲食店のなかで、あのポールスタービルのひとつ下の階(真下)に接待で伺ったことから、ブログを読ませて頂く機会をいただきました。

西谷さんから墓場の情報は頂いたのですが、全く亡くなった実感がないので、どこかで別の人か漠然としたエネルギーで、存在しているような気さえしていて、まだ会いに行けておりません。

紋谷さんは教育者(上司)としては、ほんとうに厳しい方でした。理由が分からないのです。ただ、篠塚さんの記事を拝見して、私にだけではなかったんだ…と・・・

当時の私は若かったので、今なら正面から喧嘩したり、紋谷さんの謎を暴く挑戦もできるのにな…と、残念です。

紋谷さんは、私の男性関係に「そんな男はダメだ」とよくバッサリと斬ることが多く、現在も未婚なのでハッとしております。やはり、まだ魂だけ生きているのではないかな…。生きている時の魂が、紋谷さんに関わったすべての方の中にあるのかもしれません。

今から思うと、紋谷さんに教わったのは、ワガママでも自分が良いと思うことを通す、そうじゃないと未来は見えないんだから、不器用でも声を大きくして、ここにいるよーと叫べ!!主張しろ!ということだった気がします。調和を大切にしながら。

篠塚さんにも、当時志の輔さんの落語にはじめて連れて行っていただき、大変有難うございました。

篠塚さんは、紋谷さんの親友だったんだと改めて心あたたまりました。

消される前に、ブログが読めてほんとうに良かったです。私も一生懸命、生きます。

このコメントにいつ気づかれるかは、分かりませんが、篠塚さんも夏バテや気候の変化にはお気をつけて、生きて生きて、生きてまくってくださいね!

有難うございました。

Posted by ノゾミ at 2016/08/21 23:31:06.263539+09 PASS:
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