紋谷のソコヂカラ
屁理屈礼賛 [戯れ言]
投稿日時:2011/05/05(木) 15:03
「時間を大切に…」
ここ数年、このあたりまえのことに、こだわっている。
あたりまえすぎて、日常の行動に活かしずらい
そう、あまりに当たり前すぎて…。、
「これって意味あるの?」
こう自問することで
行動の取捨選択は分かりやすくなる。
何事も単純化できるかにかかっているのだ。
単純化できないことも多いし、
また、意味があろうがなかろうが
やらなきゃならないこともある
…むしろそんなことばかりだ。
がしかし、
ほんとうにそうだろうか?
「意味がないように感じたのなら
あるようにする術はないのか?」
こう考えてから“はじめること” “ことを起すこと”に
こだわっている時間には…意味がある。
こだわってみて
それでも うーん 無意味だ…と思うなら
思い切ってやらない
そちらが正しい。
まあ それくらいちっちゃなことに、
こだわるだけでも、意外に日常の無駄は解消できる。
ここ数年そういう意味ではいろいろスリムになった。
今までが、いかに適当になんとなく
「昨日の次が今日で 明日は今日の先にある」
という緩やかな怠惰のもとで
生きていたのかと思えたりする。
…なんと理屈っぽい(笑)
GWに帰省してわが実弟と話すと…
嗚呼!もんや兄弟の
なんと理屈の多いことか。
弟の嫁さんのまた始まった…
という横顔を見るにつけ、
嗚呼! 確かに
われわれ兄弟の会話の理屈の多いことか。
そもそも父親のせいには違いない。
物ごころつくぐらいから
理屈の中で暮していた気がする。
もういま思い返すと それは屁理屈だろう…
というようなことも
理屈となって、刷り込まれていた。
「お誕生日おめでとう 今夜は豚の丸焼きを食べよう」
「?? …これって 豚の丸焼きなの?」
「そうだよ 美味しいだろう」
「美味しいけど この 細長いのはなに?」
「それは 豚のおちんちんだよ」
「ええっ! おちんちんなの?… こっちは?」
「それは足に決まっているじゃないか?」
「ええっ!? 豚は足よりおちんちんの方が 長いの?」
「そうだよ」
それはただの鳥の丸焼きであり、
その長細い部位は、おちんちんなどではなく
ただの“首”なのですが、
小学校をあがるまで
僕は あの長いものを
豚のおちんちんだと信じていた。
中学になり
「父さん 嘘をついたね
あれはただの鳥肉じゃないか!?」
と、父親に指摘すると、
「すぐ答えが分かるのは、冗談であり、
分からないのが 嘘である。
それがわからないのは、長男よ
お前が未熟なだけなんだ。
わたしは単なる冗談を言ったまでで、
嘘などついていない」
と怒られた。
完全に 屁理屈である。
ちなみに、この歳になる今でも
クリスマスに七面鳥の丸焼きなどを見ると
一瞬、長い首がおちんちんに思えてしまう。
「どうして シェーンはどこかに行っちゃうの?
悪者をやっつけたんだから
いっしょに暮せばいいじゃん?」
「シェーンにはあの山のむこうに家族がいるんだよ。
だからそこに帰んなきゃならないのさ」
「ええっ~!? 家族がいるの?
ふーん。でもさあ、家族がいるのに
この女の人を助けたの…なんかへんなの?」
「じゃあ 助けない方がよかったと思うのか?」
「そうは思わないけど…
可哀想じゃん いなくなったらさあ」
「シェーンはもう死んでいるんだよ あの馬の上で…
ほら 手をだらんと伸ばしてただろ 」
「ええっ!!
死んでいるの!?
死んでいるのに…??」
「それでも帰るんだよわが家に男だから
この西部劇は 男はわが家が一番って話しなんだよ」
翌日 学校で担任の先生と
お弁当食べながら シェーンの話しになった。
「シェーンは家に残した奥さんのもとに帰るんだよ」
というと…訳が分からないという顔になり?
「それは 間違いだと思うよ。
シェーンは自分がいてはいけないと決めて
その信じる心に従っただけだよ」
と言われたので
帰ってその話を父親にすると
「おまえの担任は独身だからな。
まだ わからないんだよ。
男はとにかくわが家に帰る
撃たれても なんでも
死んでも帰る。
そういうもんだ」
こうなると これはもう屁理屈ですらなく
単なる曲解の押しつけでしかなく、
いいのかそういう教育で
…といえなくもないのだが、
…「撃たれても帰る」って
なんだかかっこいいなあ
…と思わないでもなく
そうやって僕の価値観は出来あがっていった。
なんにしても
「理屈を語ることは大切で
そこに本質が見えてくる」
こういうことを小さいころから
なんだか毎日していた。
学生時代
映画が三度の飯より…
の類の先輩と映画談議に。
「シェーンのラスト さあ
…どこがラストシーンか覚えてるか?」
と先輩。
友人A
「シェーンカンバック~でしょ
草原を去るシーン 有名じゃないですか」
友人B
「違う 違う 甘いね…
その後 馬が駆け上がる山の上のシーン
あそこがラストだよ 」
そして先輩
「駆け上がった 山の向こう側に
遠くの方に墓地が見える
その墓地は シェーンが今まで
ガンマンとして葬った数々の悪人が眠っている
そんな墓地が ちらっと映るんだよ …」
A B
「ええっ~ そうなんですか?」
「そうそう もうあの時点でシェーンは死んでいるからね。
そういうことも墓地で示唆したんだよね」
AB 「へえ~」
映画好きには有名なエピソード
「シェーンのラスト」僕は知っていた。
尾ひれがついた伝説のようなもの。
ラストの去り際があまりに美しいがゆえに
こういうエピソードがついたのですが、
でも、その時 僕は思い出していた。
「あの山の向こうにあるのは
墓地じゃないんです…
あれはシェーンのわが家、
そこに家族が待っているんですよ」
先輩
「?? なんじゃそれ 」
「あの映画は 男は撃たれても家に帰る
そういうもんだ
愛する女が出来てしまっても
自分を待つ家族のもとに帰らなきゃ…
ってそういう話しなんです」
先輩
「そうなのか? そうなんだ
…へえ~」
すぐわかるのが冗談
わからないのが嘘なら…
これはもう嘘の部類に違いないが
そう感じることが本質であれば
それでよいのだろう。
家族がいるのに
ほかの女性に惚れてしまい
苦労している男性はこの世に多いとは思うが、
昔見た映画を見直して観ると言うのも手である。
苦労していないならどうでもよいが… 。
理屈好きの父親は
齢七十九にして健在であります。
「たかし(弟の名)が買った
あの 四角い やつはなんて言ったかなあ?」
「あい ぱっど だよ 最新のモデルだね」
「あ い ぱっど
…ふーん 何度聞いても覚えんなあ~
2ってことは3も4も出るってことだな 」
「最近は、そういう商売が主流だからね。
いったん入り込むと その商品から抜けられないような仕組み
…でも、僕は本屋をさ迷うのが趣味だから、
あれで本を読む気にはなれないなあ 」
「それはおまえの理屈だろ。
4とかになれば、さ迷いたくなるかもしれない。
よいわるいじゃなくて
そうなるってことでしかないよ」
「そうなんだろうけど…」
「いまは読める本の数も少ないんだろうけど
…それは今だけのことで
いまにああいう機械で本を読むことが
普通になるだけのことさ 」
「あの中の本屋でさ迷うのはどうも抵抗がある」
「…とにかくそうなる
文句を言っても仕方ない
世の中は便利な方に流れるしかないんだから」
「便利で失うこともある」
「だから失うと感じるのは
お前の理屈で…
そういう理屈はこねていても仕方がない
4を手に取る人の問題 」
いい歳をした息子が
もっといい歳をした父親に
諭される内容としては
あまりに当たり前すぎる会話ですが、
こういう会話がもんや家の会話であり
こういう会話も 親孝行なのだと
あえて、してしまう 。
そして こういう会話は
いつかなにかを考えるヒントになる。
口にしないでわかった顔をしていることでも、
誰かと話してみると 自分がほんとうは
どう感じているのか
相手はどう感じているのか
その根っこが分かる。
その根っこは本質で
…いつかなにかの役にたつ。
近い将来、僕に
“iPAD4”のセールスプロモーションの
依頼が来るかもしれない
…どうやったら高齢者が手に取るか
なんて話が…
そう言う時に 役に立つ
…くればの話だ(笑)
もし来ても断ると思うが
…くればの話だ(笑)
◆◆◆
村のお寺の「茅葺屋根造り」に駆り出された。
正確には 母が出ることになっていたのだが、
母の日に孝行も出来ないから…と自ら買って出た
(結局 母親も参加して孝行もへったくれもなくなったのだが)
朝の8時から午後の4時近くまで
休憩をはさみながら…大量の茅と格闘した。
こんなに小さな寺の門にこんな大量の茅が乗るのか…
ってくらいの量であります。
村の各組から当番が参加しての作業
僕と母以外はみんなおっさんやおじいさん
若きおっさま(ご住職)も参加した
…茅葺屋根造りははじめての人ばかり、
それでも畑仕事で何十年も生きてきたおっさん達は逞しい
段取りもよく動きも軽快。
負けてたまるかと ひたすら茅を運び
束ね ザクザクと切り また運ぶ …
体中がぐわぐわになった。
ザクザク切る道具は、昔からあるデカイ包丁
(名前を聞いたが忘れてしまった)
村の○○さんの家に眠っていたのを借りてきたらしい。
田舎は神仏一体の文化 お盆はお寺、
お祭りはお宮さん(神社)、
正月はお寺とお宮さん、
日々の暮らしや行事も
お寺とお宮さんは密接に関わっている。
とくにお墓のあるお寺の行事となると
村の結束は高い。
こんな小さな門で
こんなに大変なんだから
白川郷は…ありえない
などと思う
「見るとやるとじゃ違うねェ~」
とおっさんの声に、確かに…
とヘロヘロになりながら頷き、
茅と格闘した。
門の屋根に竹で土台を汲み
その上にまず“葦”を敷く
そして大量の茅の束を隙間なく
みっしりと積み上げてゆくらしい。
でもわれわれ素人の作業は
その茅の束を作るところまで
あとは任せることとなり、作業終了。
最後に記念撮影に混じった。
夏の帰省では完成している姿が見られる。
楽しみであります。
はじめに 意味があるかどうかはわからず
参加してみたが やり終えた今は
「意味があった」と思える。
こういうこともある。
考える前に動いたからといって
時間を無駄にしたわけではい。
一生懸命に それだけで意味があるということなのでしょう。
…久しく忘れていた。
(寺門と若きおっさま)
ここ数年、このあたりまえのことに、こだわっている。
あたりまえすぎて、日常の行動に活かしずらい
そう、あまりに当たり前すぎて…。、
「これって意味あるの?」
こう自問することで
行動の取捨選択は分かりやすくなる。
何事も単純化できるかにかかっているのだ。
単純化できないことも多いし、
また、意味があろうがなかろうが
やらなきゃならないこともある
…むしろそんなことばかりだ。
がしかし、
ほんとうにそうだろうか?
「意味がないように感じたのなら
あるようにする術はないのか?」
こう考えてから“はじめること” “ことを起すこと”に
こだわっている時間には…意味がある。
こだわってみて
それでも うーん 無意味だ…と思うなら
思い切ってやらない
そちらが正しい。
まあ それくらいちっちゃなことに、
こだわるだけでも、意外に日常の無駄は解消できる。
ここ数年そういう意味ではいろいろスリムになった。
今までが、いかに適当になんとなく
「昨日の次が今日で 明日は今日の先にある」
という緩やかな怠惰のもとで
生きていたのかと思えたりする。
…なんと理屈っぽい(笑)
GWに帰省してわが実弟と話すと…
嗚呼!もんや兄弟の
なんと理屈の多いことか。
弟の嫁さんのまた始まった…
という横顔を見るにつけ、
嗚呼! 確かに
われわれ兄弟の会話の理屈の多いことか。
そもそも父親のせいには違いない。
物ごころつくぐらいから
理屈の中で暮していた気がする。
もういま思い返すと それは屁理屈だろう…
というようなことも
理屈となって、刷り込まれていた。
「お誕生日おめでとう 今夜は豚の丸焼きを食べよう」
「?? …これって 豚の丸焼きなの?」
「そうだよ 美味しいだろう」
「美味しいけど この 細長いのはなに?」
「それは 豚のおちんちんだよ」
「ええっ! おちんちんなの?… こっちは?」
「それは足に決まっているじゃないか?」
「ええっ!? 豚は足よりおちんちんの方が 長いの?」
「そうだよ」
それはただの鳥の丸焼きであり、
その長細い部位は、おちんちんなどではなく
ただの“首”なのですが、
小学校をあがるまで
僕は あの長いものを
豚のおちんちんだと信じていた。
中学になり
「父さん 嘘をついたね
あれはただの鳥肉じゃないか!?」
と、父親に指摘すると、
「すぐ答えが分かるのは、冗談であり、
分からないのが 嘘である。
それがわからないのは、長男よ
お前が未熟なだけなんだ。
わたしは単なる冗談を言ったまでで、
嘘などついていない」
と怒られた。
完全に 屁理屈である。
ちなみに、この歳になる今でも
クリスマスに七面鳥の丸焼きなどを見ると
一瞬、長い首がおちんちんに思えてしまう。
「どうして シェーンはどこかに行っちゃうの?
悪者をやっつけたんだから
いっしょに暮せばいいじゃん?」
「シェーンにはあの山のむこうに家族がいるんだよ。
だからそこに帰んなきゃならないのさ」
「ええっ~!? 家族がいるの?
ふーん。でもさあ、家族がいるのに
この女の人を助けたの…なんかへんなの?」
「じゃあ 助けない方がよかったと思うのか?」
「そうは思わないけど…
可哀想じゃん いなくなったらさあ」
「シェーンはもう死んでいるんだよ あの馬の上で…
ほら 手をだらんと伸ばしてただろ 」
「ええっ!!
死んでいるの!?
死んでいるのに…??」
「それでも帰るんだよわが家に男だから
この西部劇は 男はわが家が一番って話しなんだよ」
翌日 学校で担任の先生と
お弁当食べながら シェーンの話しになった。
「シェーンは家に残した奥さんのもとに帰るんだよ」
というと…訳が分からないという顔になり?
「それは 間違いだと思うよ。
シェーンは自分がいてはいけないと決めて
その信じる心に従っただけだよ」
と言われたので
帰ってその話を父親にすると
「おまえの担任は独身だからな。
まだ わからないんだよ。
男はとにかくわが家に帰る
撃たれても なんでも
死んでも帰る。
そういうもんだ」
こうなると これはもう屁理屈ですらなく
単なる曲解の押しつけでしかなく、
いいのかそういう教育で
…といえなくもないのだが、
…「撃たれても帰る」って
なんだかかっこいいなあ
…と思わないでもなく
そうやって僕の価値観は出来あがっていった。
なんにしても
「理屈を語ることは大切で
そこに本質が見えてくる」
こういうことを小さいころから
なんだか毎日していた。
学生時代
映画が三度の飯より…
の類の先輩と映画談議に。
「シェーンのラスト さあ
…どこがラストシーンか覚えてるか?」
と先輩。
友人A
「シェーンカンバック~でしょ
草原を去るシーン 有名じゃないですか」
友人B
「違う 違う 甘いね…
その後 馬が駆け上がる山の上のシーン
あそこがラストだよ 」
そして先輩
「駆け上がった 山の向こう側に
遠くの方に墓地が見える
その墓地は シェーンが今まで
ガンマンとして葬った数々の悪人が眠っている
そんな墓地が ちらっと映るんだよ …」
A B
「ええっ~ そうなんですか?」
「そうそう もうあの時点でシェーンは死んでいるからね。
そういうことも墓地で示唆したんだよね」
AB 「へえ~」
映画好きには有名なエピソード
「シェーンのラスト」僕は知っていた。
尾ひれがついた伝説のようなもの。
ラストの去り際があまりに美しいがゆえに
こういうエピソードがついたのですが、
でも、その時 僕は思い出していた。
「あの山の向こうにあるのは
墓地じゃないんです…
あれはシェーンのわが家、
そこに家族が待っているんですよ」
先輩
「?? なんじゃそれ 」
「あの映画は 男は撃たれても家に帰る
そういうもんだ
愛する女が出来てしまっても
自分を待つ家族のもとに帰らなきゃ…
ってそういう話しなんです」
先輩
「そうなのか? そうなんだ
…へえ~」
すぐわかるのが冗談
わからないのが嘘なら…
これはもう嘘の部類に違いないが
そう感じることが本質であれば
それでよいのだろう。
家族がいるのに
ほかの女性に惚れてしまい
苦労している男性はこの世に多いとは思うが、
昔見た映画を見直して観ると言うのも手である。
苦労していないならどうでもよいが… 。
理屈好きの父親は
齢七十九にして健在であります。
「たかし(弟の名)が買った
あの 四角い やつはなんて言ったかなあ?」
「あい ぱっど だよ 最新のモデルだね」
「あ い ぱっど
…ふーん 何度聞いても覚えんなあ~
2ってことは3も4も出るってことだな 」
「最近は、そういう商売が主流だからね。
いったん入り込むと その商品から抜けられないような仕組み
…でも、僕は本屋をさ迷うのが趣味だから、
あれで本を読む気にはなれないなあ 」
「それはおまえの理屈だろ。
4とかになれば、さ迷いたくなるかもしれない。
よいわるいじゃなくて
そうなるってことでしかないよ」
「そうなんだろうけど…」
「いまは読める本の数も少ないんだろうけど
…それは今だけのことで
いまにああいう機械で本を読むことが
普通になるだけのことさ 」
「あの中の本屋でさ迷うのはどうも抵抗がある」
「…とにかくそうなる
文句を言っても仕方ない
世の中は便利な方に流れるしかないんだから」
「便利で失うこともある」
「だから失うと感じるのは
お前の理屈で…
そういう理屈はこねていても仕方がない
4を手に取る人の問題 」
いい歳をした息子が
もっといい歳をした父親に
諭される内容としては
あまりに当たり前すぎる会話ですが、
こういう会話がもんや家の会話であり
こういう会話も 親孝行なのだと
あえて、してしまう 。
そして こういう会話は
いつかなにかを考えるヒントになる。
口にしないでわかった顔をしていることでも、
誰かと話してみると 自分がほんとうは
どう感じているのか
相手はどう感じているのか
その根っこが分かる。
その根っこは本質で
…いつかなにかの役にたつ。
近い将来、僕に
“iPAD4”のセールスプロモーションの
依頼が来るかもしれない
…どうやったら高齢者が手に取るか
なんて話が…
そう言う時に 役に立つ
…くればの話だ(笑)
もし来ても断ると思うが
…くればの話だ(笑)
◆◆◆
村のお寺の「茅葺屋根造り」に駆り出された。
正確には 母が出ることになっていたのだが、
母の日に孝行も出来ないから…と自ら買って出た
(結局 母親も参加して孝行もへったくれもなくなったのだが)
朝の8時から午後の4時近くまで
休憩をはさみながら…大量の茅と格闘した。
こんなに小さな寺の門にこんな大量の茅が乗るのか…
ってくらいの量であります。
村の各組から当番が参加しての作業
僕と母以外はみんなおっさんやおじいさん
若きおっさま(ご住職)も参加した
…茅葺屋根造りははじめての人ばかり、
それでも畑仕事で何十年も生きてきたおっさん達は逞しい
段取りもよく動きも軽快。
負けてたまるかと ひたすら茅を運び
束ね ザクザクと切り また運ぶ …
体中がぐわぐわになった。
ザクザク切る道具は、昔からあるデカイ包丁
(名前を聞いたが忘れてしまった)
村の○○さんの家に眠っていたのを借りてきたらしい。
田舎は神仏一体の文化 お盆はお寺、
お祭りはお宮さん(神社)、
正月はお寺とお宮さん、
日々の暮らしや行事も
お寺とお宮さんは密接に関わっている。
とくにお墓のあるお寺の行事となると
村の結束は高い。
こんな小さな門で
こんなに大変なんだから
白川郷は…ありえない
などと思う
「見るとやるとじゃ違うねェ~」
とおっさんの声に、確かに…
とヘロヘロになりながら頷き、
茅と格闘した。
門の屋根に竹で土台を汲み
その上にまず“葦”を敷く
そして大量の茅の束を隙間なく
みっしりと積み上げてゆくらしい。
でもわれわれ素人の作業は
その茅の束を作るところまで
あとは任せることとなり、作業終了。
最後に記念撮影に混じった。
夏の帰省では完成している姿が見られる。
楽しみであります。
はじめに 意味があるかどうかはわからず
参加してみたが やり終えた今は
「意味があった」と思える。
こういうこともある。
考える前に動いたからといって
時間を無駄にしたわけではい。
一生懸命に それだけで意味があるということなのでしょう。
…久しく忘れていた。
(寺門と若きおっさま)
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