紋谷のソコヂカラ

立っても一畳 寝ても一畳 [病気について]

投稿日時:2008/12/02(火) 14:48

今日からまた病院です。

先週、書いたとおり、最近は出歩く機会が格段に増え、

その度に、「なんだ もんや…普通に元気じゃん!!」
 
などと言われてばかりいたせいか、
どうも心が勘違いしてしまっていたようで、
病院に治療をしにいかねばならない自分が…
どうも現実的ではない。
 
どちらかといえば、こちらの方が思いっきり現実なのでありますが、
人間は、甘きに流れるというのは致し方ないことのようです。
 
なんというか、面倒臭い…歯がゆい…そういう心境が近い。
もちろん、治療に戻らねばならない自分自身は常に意識していて、
何をしていても、心の底では、常に歯止めがかかっているのでしたが、
それでも、あえて客観視していて、まるで他人事のように…
もしくは、遠い空の下で起っている、
なにか天災ごとのように、語っていました。
 
もんやチャレンジで、3ヶ月も治療の間隔を空けたせいもあります。
11月の頭の途中経過の検査では、
やはり、RFP値は倍近くに跳ね上がっていたので、
病気の進行、そのものへの怖さと、
果たして、次の治療は効果はあるのだろうか?
という怖さが、現実から目を背けさせていることも感じています。
 
このブログを読み返すまでもなく…去年の今頃は、
BEP治療が限界となり、突然、新規の抗がん剤にスイッチしたタイミングです。
 
その時は、「真っ白な病院の風景が、真っ黒に変わってしまった」
と書いた覚えがありますが、
僕の中で、確実に“死ぬ”ということを意識したタイミングでもあります。
 
13年前の発症の際は、自分が死ぬかもしれないという現実は、遠いものでした。
時効でしょうから申しますが、回りがどんなに騒ごうとも…僕自身は、

「えっ!?…死ぬ?…そんなありえないよ」
と、どこ吹く風でした。
 
実際、
 
「これは、人生の休憩なんだ」
などと思っていて、読めなかった本を読んでやろうとか、
絵など描いてみようとか、
病室のベットでカメラを構え、
お見舞い客の顔を撮ってみよう…
などと、どこかのん気に構えていました。
 
抗がん剤の副作用が、あれほど強烈とは知らないせいもありましたが、
実際に体験してもなお、死ぬということ自体は、
それほど意識しなかったと記憶しています。
 
理由は2つほど。
ひとつは、投薬した分だけ、治療効果が確実に現われていたためであり、
もうひとつは、お見舞いに来ていただいた方のおかげです。
 
きつい投薬を1クール乗り越えると、その分、RFP値はぐんぐん下がり、
当初、あった肺の影は消え、予定の3クール目には、
値も正常値へと戻りました。
 
退院の折には、再発の可能性も示唆されましたが、
 
「そうなったら そうなったですね。 
 でも、抗がん剤だけはもうこりごりです」
などと、当時の主治医に嘯いていました。
 
後で、聞けば、
「僕の癌には有効な薬があるから、戦う価値はあるものの、
 すでに末期の状態ではあるため、進行を食い止めることが
 不可能かも知れず、抑えられなければ、1年の寿命と考えてください」
といわれていて、家族、親族は、やはり気が気ではなかったようです。
 
お見舞いに関しては、
“自分自身を知る”機会にもなりました。
 
当時、34歳…仕事と仕事の間で、今日を当たり前のように生きていた時代。
自分が、“他人にどう見られているか?”などとは考えもしない頃です。

確か、入院して1ヶ月もした頃、ある月曜日の朝、
定期的な検査を受けに、病院のCT検査室に行った時のこと、
上半身を、冷たい金属に押し付けていますと、
すでに、顔見知り程度にはなっていたレントゲン技師の若いアンちゃんが、
 
「もんやさん…聞いてもいいですか?」
と訊ねる。
 
「なんですか?」
と応えると。
 
「昨日の日曜日、僕は日直で、病院の受付に1日いました。
 朝から、お見舞いに来られる方の、受付をしていたのですが、
 来る人、来る人、みんな“紋谷税”さんと記入してゆく…
 数えれば、1日で48人。
 いったい、もんやさんは、何をしている方なんですか?」
と、言います。
 
CT撮られながら、聞かれる質問ではないなあ~などと思いながら、

「いやあ…なんてこたあない、普通のサラリーマンですよ」
とその場は応えましたが、病室に戻り、考えました。
 
お見舞いの方たが、多い少ないなどと、意識したことはないが、
確かに、入院以来1ヶ月で、100人を越える方々が、
この病室にいらしてくれた。
 
中には

「この方が病気で入院したら、果たして僕はお見舞いに行くのだろうか?」
と思う方まで。

…これは恐縮ばかりしていたが、とても素晴らしいことなのではないだろうか。
少なくとも、知人が病気を患い、そこに見舞うということは、気を使うことであり、それが、癌ともなればなおさら、
逆に見舞うのをはばかるということもありましょうに、
それでも、これだけの方が、お見舞いに行こうと思い、訊ねてくれた。
 
これは、なんとなく生きてきた人生ですが、満更でもないのでは…と。
 
とまあ、このような医学の力と人の気持ちのおかげさまで、
当時の僕は、「死ぬという現実」をあまり意識せずにすんだ訳でした。
 
先週、叔父が他界しました。
高齢ではありましたが、事故死という無念の最期でした。
 
この叔父さん、教育関係の多い、わが父の兄弟では、
少し異端児で、某放送局の、地方の局長さんなどを歴任されていて、
奥さんも、放送局でアナウンサーか、声優さんか、
とにかくまだ、テレビ放送がまだ、始まって間もない時代から、
テレビ局で「声」の仕事をされていた方だったと記憶しています。
 
地方の勤務が多かった必然で、
生家でもある、わが家(父は弟になります)へは、
お盆や正月くらいしかやってきません。
 
40年前当時に、渋い緑色のボルボ240GLに乗りやってくる叔父さん。
その上、顔つきは、フランス映画の主役張りの色男でしたから、
幼い僕などには、重ね合わせ、ハイカラでモダンなイメージの方でした。
 
「おお!ちから君元気か!?」
どちらかと言うと、人生を諭すことが好きな、
親戚の叔父、叔母の中にあって(笑)、
このハイカラな叔父は、説教らしい説教もせず、
いつも明るく、ニヤニヤと頭をなでてくれる
…そんな人でした。
 
今、思い出しても、甥への正しい接し方などは、
出来ない人だったように思います。
 
諭し、導くというより、どこか距離のある接し方しかできない、
そんな不器用な人。
 
それでも、我が家の座敷の欄間は、爺さんが自分で彫ったという話しや、
放送局の裏話なんかを、酔った勢いで話してくれる叔父でした。
 
晩年は、お会いする機会もなく、今回の訃報でした。
奥様を先に無くされてからは、独り暮らし、
最近は、どんな心持で過ごされていたのかは、存じませんので、
予期せぬ最期を、いま天国でどう感じているか
…思い巡らすこともできません。
 
一昨日、遺品の整理などを手伝いに、その晩年の住まいを訪れました。
そこには、独り暮らしの男の一生が詰まっていました。
 
故人で在れども、プライベート。詳しくは申しませんが、
叔父の人生を、こんな形で振り返っていることの寂しさと、
あのハイカラな叔父の晩年が
こんなだったのかを知ってしまったせつなさと…
そんなこんなを思いました。
 
この歳にもなると、身近な方の訃報は増えてくるものです。
そういう覚悟は、しているのですが、
ここ数年は、自分のことばかりが先にたち、
やはり、親族はもちろん、知人への配慮や気遣いがかけていたことも
痛感しました。
 
自分がどんな状況でも、人生に関わってくれた方への気持ちは忘れてはならない。
また、誰しもが、いつ何時、死ぬことがあるかもしれない以上、
そうなってしまった際に、残す迷惑も自分の一生の中で精算しておくことが肝要。
 
そうして、最期は、立って暮らせど、寝て暮らせど…
一畳の世界で足りるくらいのもの。
 
この歳にして改めて、恥ずかしくも、色んなことが勉強になった訃報です。
 
遺品の中から、いくつか中古のカメラを見つけました。
どうも、中身はガタが来ているようですが、
修理に出して使ってみようと思います。
 


いかにも、もんやらしいノスタルジーですが、そうしようと決めました。
 
そうして、また退院したら、お世話になった方や、
会いたいと思う気持ちのままに、人と会い、
バシャバシャと撮ってみようと考えています。
 
その際の心境は、13年目とは少し違うと思いますが…
それでもなお、

「死ぬわけないじゃん!」
と嘯き…バシャバシャと… 

そこのあなたも、覚悟しておいてください。



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